マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 04:オーストリア軍総司令官の交替とジェノヴァの陰謀 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 04

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

ボーリュー将軍の解任とメラス将軍による再編成

 ボーリューは5月31日にロヴェレトへ逃れた後、6月初旬までロヴェレトを中心に軍を集結させた。

 しかしボーリューは敗北による重圧で活発に動くことができず、アディジェ渓谷(ロヴェレト周辺)で防備を固めた。

 1796年6月中旬、ボーリューはイタリア陸軍総司令官を解任され、本国に呼び戻された。

 次の司令官が着任するまでの間、メラスが暫定的に指揮を執り、トレントに本営を移した。

 6月19日、メラスは軍を可能な限り再編成し、兵力を配置した。

 右翼としてラウドン(Loudon)将軍をフォアアールベルク(Vorarlberg)の国境付近に駐屯させ、タウファース・イム・ミュンスタータール(トゥブレ)とナウダース(Nauders)そしてトナレ峠(Passo del Tonale)に大隊と500頭の馬で防衛させた。

 34個約4,000人にも及ぶ民間のチロル猟兵隊を組織し、その内約3,000人をヴァルテッリーナ(Valtellina)に移動させた。このチロル猟兵隊の指揮もラウドン将軍に委ねられた。

 3個大隊を指揮するグラフェン(Grafen)将軍を、現在のリヒテンシュタイン公国周辺のライン川のほとりに位置するフェルトキルヒ(Feldkirch)、ファドゥーツ(Vadutz)、ヴィルタース(Vilters)に配置した。

 グラフェン将軍がここに配置された理由はグリソン州にある三同盟自由国の中立性をフランス軍が侵害する恐れがあったためであり、ファドゥーツとモンタフォン谷の隘路は強力に防衛されていた。

 中央としてセボッテンドルフ中将をガルダ湖西側に位置するイドロ(Idro)とガルダ湖東側でアディジェ川までの間にあるアーヴィオ(Avio)までのラインに10個大隊と100頭の馬で駐屯させた。

 9個大隊、5個騎兵中隊を指揮するリプタイ少将に、アディジェ川左岸にあるアラ(Ala)を防衛させた。

 左翼としてホーエンツォレルン少将をカルドナッツォ湖(Lago di Caldonazzo)付近の谷にあるブレンタ(Brenta)からアジアーゴ(Agiago)を4個大隊、3個騎兵中隊で防衛させた。

 さらにガルダ湖周辺に砲台が建設され、チロル州の州都であるインスブルックにあらゆる軍事施設を建設した。

 そしてインスブルックではブラベック将軍が国の海軍提督と協力して防衛手段を準備していた。

 軍艦はアドリア海で武装し、イストリア半島沿岸の全ての街は守備隊を受け入れ、イストリア半島とダルマチアで8,000人の民兵が育成され、ヴェネツィアからカリンシア州に至るすべての隘路は砲台が設置されていた。

◎トレント周辺のオーストリア軍の兵力配置

 これらの兵力配置は攻撃ではなく防衛を主軸に考えられた配置であり、これによりオーストリア軍がすぐに攻撃を再開することは不可能である思われた。

 加えて約3,000人以上がトレント(Trento)、ボルツァーノ(Bolzano)、ブレッサノネ(Bressanone)で治療しており、健在な兵も敗戦による疲労と食料や軍靴の不足によって士気は低下していた。

◎オーストリア兵が治療している病院の位置

 装備、物資は潤沢で壮健だった旧ボーリュー軍は、フランス軍と同程度にまでボロボロになっていた。

 ボロボロのフランス兵捕虜から衣服や靴を組織的に奪わなければならないほどひどい状態だった。

 この時、フランス兵捕虜達はオーストリア士官に衣服を奪われたことを裸のまま訴えたと言われている。

新たな総司令官の任命と増援の派遣

 オーストリア本国ではこのようにひどい状態となり果てた旧ボーリュー軍を補強するために総力を上げていた。

 6月末、イタリア陸軍総司令官としてヴルムサー元帥が任命され、ライン(Rhein)方面やガリシア(Galicie)方面(ガリシア方面とは現在のポーランドとウクライナの国境付近の地域一帯)の軍からの31個大隊と18個騎兵中隊、計約25,000人を率い、メラス中将と合流すべくトレントに向かった。

 同時に装備や物資もトレントに送られた。

 大部隊であるためヴルムサー率いる増援がトレントに到着するには多くの時間が必要だった。

 ガリシア方面から増援として送られた騎兵隊の一部は飼料が不足していたため、ザルツブルグ(Salzburg)、クーフシュタイン(Kufstein)、ケルンテン州(Kärnten)にあるシュピッタル・アン・デア・ドラウ(Spittal an der Drau)とクラーゲンフルト(Klagenfurt)の周囲の地域に留まることを余儀なくされるという一幕もあった。

 しかしオーストリア軍の大規模な増援は部分的に遅延はあるものの着々とガルダ湖畔に向けて歩を進めていた。

ジェノヴァの陰謀Genoese conspiracy

 トルトナでボナパルトが得た情報によるとオーストリア皇帝の元に他国から増援が来ており、ポーランド方面からも送られてきていること。

 そしてオーストリア皇帝が8月にはイタリアに戻ると言及しているとのことだった。

 オーストリア皇帝が8月にはイタリアに戻ると言っていることから、7月下旬~8月中旬までの間に北イタリア奪取を計画しているということであり、様々な状況から最低でも6週間は猶予があることが読み取れる。

 逆に言えば6週間以内に反乱地域を平定し、ミラノのスフォルツェスコ城を攻略し、教皇領への遠征を終わらせマントヴァ要塞を攻略しなければならないのである。

 スケジュールはひっ迫していた。

 1796年6月14日、ボナパルトはトルトナに移動し、ランヌをアルバやトルトナへの道を封鎖している反乱勢力によって支配されたポッツォーロとアルクアータ・スクリーヴィアに向かわせた。

 ボナパルトは反乱を鎮圧すると村を破壊し尽くし見せしめとした。

 この反乱の扇動者がジェノヴァ政府であり、ノヴィの守備隊とセッラヴァッレ・スクリーヴィアのピエモンテ人市長によって支援されていたことが判明した。

 ボナパルトは名家スピノラ家に連なるジェノヴァ総督ジャコモ・マリア・ブリニョーレ(Giacomo Maria Brignole)とサルディーニャ王国に対して今後の交通の安全を監視し、食料と弾薬の船団を護衛するよう圧力をかけた。

 ジェノヴァ政府とサルディーニャ王国は、今後の交通の安全を監視しフランスの補給船団を護衛することを約束した。