マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 02 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 02

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

フランス軍を取り巻く諸問題Problems with the French army

 6月4日、セリュリエ師団、オージュロー師団、キルメイン騎兵隊でマントヴァ要塞の本格的な包囲に入ったフランス軍だったが、マントヴァ要塞の包囲の他、トレント方面へ逃れたオーストリア軍、ミラノのスフォルツェスコ城の攻略、後方(主にトルトナ方面)の反乱地帯の安全確保、支配地域が隣接した教皇領への対応を行わなければならなかった。

◎フランス軍を取り巻く諸問題

 特にトルトナ方面の反乱はジェノヴァからトルトナやアルバへの道を封鎖しフランス軍の補給を脅かしていた。そのため真っ先に対処しなければならない問題だった。

 ボナパルトはそれらの問題を解決するために軍の再編計画を立案した。

 イタリア方面軍全軍で約90,000人が所属しているが、42,000人以上の兵士は武装しておらず、デスピノイは約10,000人でスフォルツェスコ城の包囲のためにミラノを封鎖していた。トレント付近にいるオーストリア軍の警戒とアディジェ川の防衛でマッセナに約19,000人、マントヴァ要塞の包囲でセリュリエに約7,000人、マッセナとセリュリエとの連絡のためにキルメインに600~800騎の騎兵隊が必要であった。さらに征服した場所の守備隊、病人、捕虜となった者を差し引くと、反乱地域の平定と教皇領への遠征のためにはアルプス方面軍から増援を含む5,000人~6,000人ほどの兵力しか残らなかった。

 マッセナに対オーストリア軍の総指揮を執らせ、セリュリエにマントヴァ包囲作戦を指揮させ、自身は反乱地域の平定、そしてオージュロー師団とともに教皇領への遠征を行い、同時にデスピノイにミラノのスフォルツェスコ城を攻略させ、その後、マントヴァ要塞を陥落させる計画である。

◎ナポレオンの計画

 ランポン、ジュベール、ガルダンヌ、ヴィクトールなどの優秀な旅団長の多くをマッセナの麾下に置き、ボナパルトはミュラ、ランヌ等を引き連れることとした。

マッセナ師団の状況Status of Massena Division

 騎兵700騎を含む約19,000人を擁するマッセナ師団はアディジェ川のラインとロベレト周辺にいるオーストリア軍の警戒のため地形の把握と兵力配分を行った。

 マッセナ麾下約19,000人の内、6月初旬に師団長に就任したばかりのソーレ率いる師団(ギウ旅団、ルスカ旅団が所属)約4,500人はガルダ湖西側を防衛し、マッセナ直属の約8,500人はペスキエーラ要塞からベローナ要塞の間の防衛を、残りの約6,000人に関しては後にマッセナ師団に合流する計画だった。

 ヴィチェンツァ方面はヴェネツィア共和国の支配地域であり、オーストリア軍が主攻をヴィチェンツァ方面へ振り向ける可能性はほぼ無いと考えられるため防衛計画には含まれなかった。

◎マッセナ師団の全体防衛計画

 その中でマッセナが直接指揮するガルダ湖東側の地域の防衛は特に重要だった。

 ガルダ湖西側はガルダ湖沿岸の道以外は標高800mから1,200mの山々で覆われており防衛は比較的容易と考えられ、ガルダ湖東側は軍が通過可能な道がいくつかあったからである。

 ガルダ湖とアディジェ川の間には標高2,000mを超えるバルド山(Monte Baldo)があり、ガルダ湖とバルド山の間はマルチェジネ(Malcesine)からサン・ゼーノ・ディ・モンターニャ(San Zeno di Montagna)の道のみ通過でき、バルド山とアディジェ川の間は狭く険しい山道とアディジェ川沿いの道が通行可能だった。

◎オーストリア軍の進軍経路の可能性

 もしオーストリア軍が大部隊を移動させる場合、地形的にガルダ湖西側では無く大部隊を移動できる道が多くある東側を選択する可能性が非常に高いのである。

 マッセナにとってバルド山とアディジェ川の間の防衛においてコロナ(Corona)は最重要地点であるように思えた。コロナの東はピソッテ川がアディジェ川に流れ込む深いブレンティーノ渓谷で覆われ、南は渓谷の出口でありアディジェ川が通過するリヴォリ・ヴェロネーゼによって支えることができる。北はバルド山によって閉鎖されており、その頂上には狭い道でしか通行できない。

 オーストリア軍がアディジェ渓谷の道を南下してきた場合、ブレンティーノで正面を封鎖しコロナの高地から側面を攻撃することができる。そしてブレンティーノを突破されたとしてもリヴォリ・ヴェロネーゼで食い止めることができるのである。

 ガルダ湖東岸沿いの道についてはサン・ゼーノ・ディ・モンターニャでの防衛が最善と考えられた。

◎ガルダ湖東側の防衛計画

 しかし、ボルゲットの戦い後、各地に分散した部隊の集結は遅れていた。ソーレ師団も未だサローに半旅団しか集結できていなかった。

 マッセナは麾下の旅団長に指示を出し、ジュベールをバルド山に野営した1個大隊を含む部隊でソンマカンパーニャからコロナへ移動させ、部隊の集結を急がせた。

ブレシアの休戦Armistice of Bresia

 ボナパルトは6月5日、ミラノに赴きナポリ王国のベルモンテの王子と会談し休戦協定(ブレシアの休戦)の締結を行った。これにより第一次対仏大同盟からナポリ王国が脱落し、ナポリ王国はフランス軍の支援のために部隊を送ることを約束した。

 ナポリ王国は約30,000人の兵力を保有していたが、支配地域が近くなった事、オーストリア軍の連敗によりフランス側に乗り換えたのである。クト王子がフランス軍の捕虜になったことも要因の一つかもしれない。

 第一次対仏大同盟結成時の参加国はオーストリア、南ネーデルラント(オーストリア領ネーデルラント)、グレートブリテン王国(イギリス)、ナポリ王国、プロイセン王国、サルデーニャ王国、スペイン王国であったが、この時点でプロイセン(1795年4月)、南ネーデルラント(1795年5月)、スペイン王国(1795年7月)、サルディーニャ王国(1796年4月)、ナポリ王国(1796年6月)が第一次対仏大同盟から離脱し、残る同盟国はオーストリアとグレートブリテン王国のみとなった。