ロアノの戦い 06:ロアノの戦いの終盤 Battle of Loano 06
ロアノの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約25,000人 | 約1,700人 |
オーストリア サルディーニャ王国 |
約18,000人 | 約4,000人 捕虜:約4,600人 |
ロアノの戦い 終盤Siege
11月23日夜10時、マッセナはメローニョに留まり兵士達にビスケットとブランデーを配った。
11月24日午前1時、セルヴォニとメナードを残し、サン・パンタレオへ下った。
ジュベール大佐に1個大隊を預けフィナーレからアックイへの退路を遮断するためにマドンナ・デラ・ネーヴェを経由しサン・ジャコモへ向かわせた。
サン・ジャコモはフィナーレから内陸にフェリーノ、マラレ、アルターレ、アックイを結ぶ重要地点であり、オーストリア軍の左翼と中央を結ぶ連絡線の中継地点でもあった。
ここを遮断することは、オーストリアの中央と左翼をそれぞれ孤立させ、左翼を包囲することを意味していた。
ジュベール大佐は夜明け前に重要地点であるサン・ジャコモへ到着した。
サン・パンタレオはフィナーレの北西に位置しており、オーストリア軍が防備を固めているゴッラの目と鼻の先にあった。
11月24日夜明け、マッセナはサン・パンタレオに到着した。
オーストリア軍は、ゴッラとヴェレッツィの良い位置を確保していた。
サン・パンタレオの高台からフィナーレを見下すとオーストリア軍は曲がりくねったフィナーレ盆地の輪郭を描いた川に並んでおり、フェリーノからゴッラそして海岸へ続いていた。
マッセナはその数を約8,000人と推定した。
対するマッセナは約2,000人しかおらず、ラハープに兵を送るように命令したが、24日正午には未だ4,300人にしかならなかった。
さらに、攻撃に必要な増援と大砲は夕暮れまでにマッセナと合流することができず、疲労と空腹のため休息を取った。
オージュローからの連絡も無かったため、攻撃を25日に延期することを決定した。
マッセナはアルジャントーに対抗するため、メローニョに大部隊を駐屯させ要塞化させていた。
そのため最前線では兵が不足していたのである。
一方、オージュローはこの日ピエトラへ2,000人の部隊を派遣した。
ウォリスは地形に沿って大砲を設置し防衛線を構築しているものの、翌日にヴァド、サヴォナへ退却することを考えていた。
11月24日夕暮れ時、後退を隠すために防衛線全体に大きな火を煌々と焚き付け、夜8時頃、3列に分かれ陰で後退始めた。深夜にはヴァド、サヴォナに後退する最前列の部隊がフィウマーラを通り過ぎていた。
25日未明、シェレールはオージュローに攻撃命令を下した。
オージュローは部隊を2つに分けた。1つはランヌ大佐が指揮し海岸沿いを進軍、もう1つはオージュローが山に向かった。
海岸ではフランスの小艦隊がオーストリア軍を砲撃しランヌを支援していた。
マッセナはサン・パンタレオにメナードを残し、セルヴォニとビザネットとともにフィナーレに降下した。
後退したオーストリア軍の一部はジュベールの守るサン・ジャコモへ向かった。
そこで戦闘となり、オーストラリアの部隊は敗退した。オーストリア軍はアルジャントーとの道も断たれ、包囲されていることを知った。この時の戦闘で、多くの大砲、マスケット銃、弾薬がジュベールによって鹵獲された。
ウォリスは右側でフランス部隊が形成され、包囲されているのを見て、退却を延期しない方が賢明であると考えた。
ウォリスは穀物を海に投げ込み、大砲の一部を放棄してでも後退速度を速めた。
オーストリア軍左翼は暗闇の中、一部混乱を招きながらもヴァド、サヴォナへ後退していった。
オーストリア軍中央ではアルジャントーがミレッシモへ退却していった。
ヴァドへTo Vado
11月25日、マッセナとオージュローはマッセナ指揮の下ヴァド、サヴォナへオーストリア軍を追跡した。
オージュロー師団は4,000人でウォリスを追跡したが、マッセナの部隊は右翼コッリ率いるピエモンテ軍に対抗するため、大幅に兵力を割かれていた。
作戦の戦略目標であるヴァドは目前だった。
その日オージュローはサン・ステファノにある砦まで進軍し、マッセナはセーニョでラハープの2個大隊と合流し、モンテ・ロッカで夜を迎え休息に入った。
11月25日の深夜、ウォリスはヴァドとサヴォナの砦を破壊し、翌朝26日の早朝にヴァドとサヴォナを放棄した。
軍を2つに分け、1つはモンテ・クイトへ、もう1つはレティンブロ川の左岸にある高台に後退した。
27日にモンテ・クイトの部隊はカディボナ方面へ出発し、アルターレを通り、デゴで夜を迎え休息した。
レティンブロ左岸の部隊は27日に出発し、モンテノッテ、マルヴィチーノを通り、29日にアックイに到着した。
マッセナとオージュローはマドンナ・デル・モンテ付近にあるクイリアーノ川とアルビッソーラにあるサンソッビア川などの地形的な障害、そして疲労、軍靴の不足により行軍を停止するよう命令した。
この時点でオーストリア軍左翼は完全に撤退し、ヴァド、サヴォナはフランス軍の支配下となった。
この4日間の戦闘で、マッセナ師団、オージュロー師団の損害はシャーレット中将と約500人の兵士が死亡し、ロッカ・バルベナの戦いで指を2本失ったサン・ティレール少将、バネル少将含む約1,200人の兵士が負傷した。
オーストリア軍中央と左翼の損害は、約3,500人の兵士が死傷し、テルニシー少将、2人の大佐、約200人の将校含む約4,000人が捕虜となった。