ロアノの戦い 07:セリュリエ vs コッリ とその後 Battle of Loano 07
ロアノの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約25,000人 | 約1,700人 |
オーストリア サルディーニャ王国 |
約18,000人 | 約4,000人 捕虜:約4,600人 |
セリュリエの戦いSéruriers Battle
11月26日、シェレールはフランス軍左翼のセリュリエ中将に、オルメア周辺の標高2,000m級の山々が連なる山脈地帯を越えて、タナロ渓谷、カソット、コルサリア渓谷にピエモンテ軍を押し込むように命令した。
シェレールはさらにセリュリエの側面部隊として、バルディネートに集結した3,000人の部隊をジュベール大佐に指揮させ、メローニョに集結した5,000人の部隊をメナードに指揮させた。
そして、サン・ベルナルドとガレッシオの後背にあるモンテ・スピナルダを攻撃するように命令した。
セリュリエは配下のミオリス少将とラサルセトル少将にトラッパとガレッシオの攻略を命じた。
激しい攻防の後、ピエモンテ軍はトラッパとガレッシオから退却した。
セリュリエの猛攻から2日間サン・ベルナルドを守り通したコッリ中将はガレッシオの敗北と、オーストリア軍の敗北を知り、モンタフィア少将が守るモンテ・スピナルダへ後退した。
11月28日、モンテ・スピナルダのピエモンテ軍はコッリとモンタフィアの合流により、5,000人から6,000人と推定された。
そのため、フランス軍各部隊は素早く慎重に連携するよう模索した。
ギョーム少将がモンテ・セッテパニのピエモンテ軍正面を、ジュベール大佐がバルディネートから右側面を、メナード少将がヴェトリア村から左側面を攻撃することとなった。
さらにこの地域をよく知っている技術者旅団長クラウザードはヴェノークス少将麾下1,500人の部隊を案内し、タナロ渓谷でピエヴェッタに向かうセリュリエの動きをカバーするために、そして、モンテ・スピナルダからの退路を遮断するため行動しすることとなった。
しかし、モンタフィア少将はセリュリエ師団の一連の行動を見て、スピナルダをこのまま防衛していても殲滅されるだけと考え、足の遅い部隊を置き去りにして素早く後退した。
セリュリエはモンテ・ソッタとプリオラの塹壕を破壊し、タナロ渓谷のピエモンテ軍をチェバまで追い込んだ。
この4日間の戦闘で、セリュリエ師団の損害は56人が死亡し、約200人が負傷した。
ピエモンテ軍の損害は約500人が死亡し、約600人が捕虜となり、5門の大砲を失った。
セリュリエ中将はこの戦いで数的劣勢にも関わらずピエモンテ軍を相手によく持ちこたえ、コッリをガレッシオ周辺に釘付けにできた。セリュリエは自身の役割を完璧に果たしたのである。
その後After
ロアノの戦いは終わった。
オーストリア軍は撤退後アックイ周辺を中心に防衛線を構築し、ピエモンテ軍もチェバ周辺を防衛していた。
ピエモンテの将軍たちは国王ヴィクター・アマデウス3世にフランスとの早急な和平条約締結を進言していた。
敗北の原因を作ったアルジャントーは軍法会議にかけられたが無罪となった。
フランス軍は ロアノ ~ サヴォナまでを支配下に置き、その前線はチェバの手前まで進出した。
しかし、季節的な問題があり、本営から前線までの連絡線の長さ、兵員、食料等の物資も不足していた。
増援も徐々に到着していたが、すべてが到着するには時間がかかっていた。
そのためシェレールは進軍を停止し、ピエモンテ・オーストリア軍に防備を固める時間を与えることとなった。
イタリア方面軍は総司令官にボナパルト中将を据え、翌1796年に進軍を再開することとなる。
1796年から1797年にかけての「第一次イタリア遠征」である。