バッサーノの戦役 02:フランス本国からの侵攻計画
Battle of Bassano 02

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人バッサーノの戦い:約22,000人 ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

ナポリ王国の策動

 イタリア方面軍が食糧難に喘いでいるとき、ナポリ王国が動き出した。

 ナポリ国王フェルデナンド1世の妻であり国政を握っていた摂政マリア・カロリーナ・ダズブルゴが約24,000人のナポリ王国軍を動かしたのである。

 マリア・カロリーナは、処刑されたフランス王妃マリー・アントワネットの姉であり、後にナポレオンが「ナポリ王国唯一の男」と呼んだ女性である。

 ナポリ王国軍は、教皇領との境界付近に位置するソーラ(Sora)とポンテコルヴォ(Pontecorvo)に近づいてきていた。

◎ナポリ王国軍の動き

 休戦協定が結ばれてはいたが、イタリア方面軍がヴルムサーと戦っている時に教皇軍及びナポリ王国軍に後背を突かれた時、トスカーナ州にいるセリュリエ師団のみでは圧倒的劣勢に立たされてしまう。

 そのためボナパルトはセリュリエ師団の増強と教皇軍とナポリ王国軍の監視のために、いくつかの半旅団をトスカーナ州に派遣せざるを得なかった。

 ナポリ王国軍が動き出したことにより、全体的な軍事的、外交的判断が必要となりボナパルトは本国に支援を求めた。

本国からの命令

 1796年8月下旬頃、ボナパルトは本国からの作戦計画を受け取った。

 5月にあったボルゲットの戦いにおいてボナパルトがボーリュー元帥を打ち破ったことにより、モローと相対していたヴルムサー元帥がドイツ軍から約25,000人を引き連れてマントヴァ要塞救出に向かったことでドイツ方面のオーストリア軍は弱体化していた。

 それが大きな要因となり、モロー将軍率いるライン・モーゼル方面軍は8月11日のネレスハイムの戦いに勝利を収め、18日~19日の間にドナウ河を渡り、ドナウ河南岸を東に着実に進軍し、23日にはレッヒ(Lech)川の流れるアウグスブルク(Augsburg)に到達していた。

 そして数日後にはミュンヘンを占領するものと思われた。

 フランス政府はライン・モーゼル方面軍から部隊を分離させてチロル州の州都インスブルックに向かわせ、イタリア方面軍とともにチロル州のヴルムサー元帥を挟撃して打ち破ることにより、ジュールダン将軍率いるサンブレ・エ・ムーズ軍、モロー将軍率いるライン・モーゼル方面軍、ボナパルト将軍率いるイタリア方面軍の3軍を合わせてウィーンに攻め上る計画を考えていたのである。

◎フランス政府の計画

 そのため、フランス政府はボナパルトにライン・モーゼル方面軍の準備が整うまでインスブルックの前までを勢力下に置くことと征服した地域の維持を望んだ。

 ボナパルトはこの命令を受け取った時、モロー将軍の準備が整い攻撃の合図を送るまでインスブルックの前で待たなければならないことを理解した。

 ボナパルトはすぐに侵攻準備に取り掛かった。