バッサーノの戦役 07:マントヴァ要塞への退却行
Battle of Bassano 07

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

勝利への道筋

 1796年9月8日夜、ダヴィドウィッチ師団およびカスダノウィッチ師団と分断され、ヴルムサーの手元には無傷のメサロス師団約11,000人とセボッテンドルフ師団の残骸しか残されていなかった。

 現有戦力ではフランス軍に対抗することはできず、マントヴァ要塞を救出することも困難な状況だった。

 しかしヴルムサーはフリウーリ州方面に後退してフランス軍に対抗する選択をせず、マントヴァ要塞を包囲しているフランス師団を突破しマントヴァ要塞駐屯軍と合流することを決定した。

 東のフリウーリ州方面に行くにしてもモンテベッロのメサロス師団とは分断される可能性が高いため、メサロス師団はマントヴァ要塞に向かわせなければならない。

 しかしメサロス師団のみではマントヴァ要塞を包囲しているフランス師団を突破できるかは不透明であり、セボッテンドルフ師団とカスダノウィッチ師団がフリウーリ州方面で回復・増強している間にメサロス師団はフランス軍に包囲殲滅されているかもしれない。

 メサロス師団を失った場合、例えフリウーリ州方面で軍を増強したとしてもフランス軍に対抗することは難しく、トレヴィーゾのみならずウディネやフリウーリ州の州都トリエステまでも奪われてしまうだろう。

 そしてマントヴァ要塞の食糧も無くなり早々に降伏に追い込まれることが予想された。

 ヴルムサーがマントヴァ要塞を包囲しているフランス師団を突破してマントヴァ要塞駐屯軍と合流しフランス軍を引き付けている間に、ゴリツィア周辺の部隊と本国からの増援によって強化されたカスダノウィッチ師団が背後から攻撃してフランス軍を打ち破るという計画を立案し実行に移した。

◎ヴルムサーによるフランス軍打倒計画

 カスティリオーネだけでなくバッサーノでの散々たる敗北は普通の将軍であればマントヴァ要塞の救出は諦めて東に敗走し、本国に頼り、現地の軍隊とともに防衛線を構築しただろう。

 しかし多くの困難が立ちはだかっているものの勝利への道筋を見出していただろうヴルムサーの心理に影響を与えることはできなかった。

ヴルムサーの最優先課題

 1796年9月8日深夜、チッタデッラに集結したヴルムサーは、すぐ西のフォンタニーヴァ(Fontaniva)でブレンタ川を渡り、ヴィチェンツァに進んでメサロス師団の後衛部隊と合流した。

 その後、ヴルムサーはヴィチェンツァにセボッテンドルフを残してモンテベッロに急速に移動し、9月9日朝、モンテベッロに到着した。

 マントヴァ要塞への退却戦において、ヴィチェンツァからマントヴァ要塞への最短ルート上にあるレニャーゴを占領し、アディジェ川の通過を確保することが最優先課題だった。

◎チッタデッラからマントヴァ要塞への最短ルート

 もしフランス軍にレニャーゴ橋に先回りされてしまった場合、突破できなければ包囲殲滅されてしまうのである。

 そのため先遣隊としてレーヴェン(Leaven)少佐の部隊を分離して先行するよう命令し、レニャーゴの防衛部隊を組織するためにラウアー将軍とファンク将軍を同行させた。

 夕方、ハイスター(Heister)将軍はロニーゴ(Lonigo)でタヴェルネッレ(Tavernelle)にいる後衛と合流して後衛旅団を形成せよとの命令を受け取った。

カスダノウィッチへ託した希望

 カスダノウィッチ師団の兵はモンテベッロに少数しか到着していなかった。

 カスダノウィッチ師団のほとんどはカステルフランコからトレヴィーソ(Treviso)に敗走していた。

 ヴルムサーはカスダノウィッチに対し、ヴェネツィアとトリエステを経由してゴリツィア(Gorizia)郡に進み、そこに分散している部隊を集めて再編成するよう命令した。

 ゴリツィアに駐屯していた7個大隊とポンテッバに駐留していたシュビルツ旅団がカスダノウィッチ師団に加わり、さらに本国からの増援部隊をイゾンツォ(Isonzo)川に集結させて統率させた。

 ケルンテン(Kärnten)州や他の州を担当している将軍はすべての部隊を武装させ、すぐに戦いに行けるように準備を行った。

 ヴルムサーはカスダノウィッチに内オーストリアの兵力を結集させるだけではなく、ヴルムサーがマントヴァ要塞駐屯軍と合流してフランス軍と相対する場合に備えてフランス軍の後方から強力な迂回攻撃を行えるようにした。

 フランス軍を打ち破るのはヴルムサーとマントヴァ駐屯軍の力を結集しただけでは足りず、カスダノウィッチ師団の力が加わって初めて成し遂げることのできることだった。

 ヴルムサーはカスダノウィッチに希望を託したのである。

オーストリア軍によるレニャーゴ橋の確保

 1796年9月9日夜明け頃、未だヴィラノヴァ(Villanova)にいたオット旅団はレニャーゴに行くよう命令を受け取り、野営地の灯りを維持しつつレニャーゴへ向かった。

 午前中、セボッテンドルフはヴィチェンツァを出発しモンテベッロに向かった。

 正午頃までオーストリア軍はモンテベッロで集結と再編成のため数時間停止し、レニャーゴへの行軍を続けた。

 レーヴェン少佐の分遣隊が先行し、メサロス師団とセボッテンドルフ師団が続き、その後を砲兵や荷馬車が行軍した。

 そしてハイスター将軍が後衛旅団を形成した。

◎レニャーゴまでのオーストリア軍の隊列

 オーストリア軍はコローニャ(Cologna)で6時間ほど停止し、兵士たちに肉とワインを配給した。

 この後の行軍と戦闘に備えるため、オーストリア軍は兵士たちの食事や休憩を怠ることは無かった。

 10日朝、オットは途中で行軍を停止してスープを作り、アディジェ川で見つけたボートを持ち帰った。

 その日の夕方、ヴルムサーはレニャーゴに到着した。

 レニャーゴではレーヴェン少佐が前哨基地を形成しており、軍はアディジェ川を渡ってその多くを右岸側に集結させた。

 レーヴェン少佐はフランス軍がいるであろうヴェローナとマントヴァ方面の偵察に向かい、イーゾラ・リッツァ(Isola Rizza)とサングイネット(Sanguinetto)にまで行ったがフランス軍が近づいてくる気配は無かった。

フランス軍による追跡の開始

 フランス軍としてはマントヴァ要塞に向けて敗走しているオーストリア軍がマントヴァ要塞駐屯軍と合流する前に追いつき、オーストリア軍に不利な戦いを強いる必要があった。

 ボナパルトはこの時、マッセナ師団にヴルムサーの後を追跡させ、オージュロー師団にはパドヴァを経由してレニャーゴに迂回機動を行わせてヴェネツィア方面への退路を遮断し、マントヴァ要塞を封鎖しているソーゲ師団でヴルムサーの行軍を止めることによりヴルムサーを包囲殲滅することを計画していた。

 マントヴァ要塞北側の封鎖部隊のみでは負担が大きいと考えられたため、ボナパルトは追撃準備を急いで行った。

 バッサーノの戦いの翌日の1796年9月9日、オージュローはヴルムサーのヴェネツィアへの退路を断ち切るためにパドヴァへ進軍した。

 マッセナはヴルムサーの後を追いヴィチェンツァに到着した。

◎レニャーゴまでのオーストリア軍追跡計画

 10日午後、レニャーゴに向かっていたマッセナはロンコ(Ronco)でアディジェ川を渡り、レニャーゴからマントヴァ要塞への道を遮断するためにサングイネット(Sanguinetto)に急いで進軍するよう命令を受けた。

 この時にはオーストリア軍はレニャーゴを渡り終えていた。

 そのため、オージュロー師団にヴルムサーの後を追わせ、マッセナ師団に迂回機動を取らせて行軍進路を遮断するよう命令の変更が行われたのである。

◎変更後のオーストリア軍追跡計画

 渡し舟を調達したマッセナは9月10日夜の内にアディジェ川を渡り始めた。

 オージュローはヴルムサーがアディジェ川沿いを通りヴェネツィアに逃れるのを防ぐために、左翼にアディジェ川沿いを哨戒させながらレニャーゴへ向かう必要があった。

 そのため行軍は遅れた。

サングイネットへの選択肢

 ヴルムサーはフランス軍がレニャーゴからマントヴァ要塞への道を遮断できる位置にいるとは考えていなかった。

 そして、これからマントヴァ要塞を包囲しているフランス師団との戦いが待ち受けているはずであり、鋭気を養う必要があった。

 そのため1796年9月11日まで軍を進めることは無かった。

 オーストリア軍が行軍を停止している間にマッセナ師団の前衛旅団はアディジェ川を渡るとすぐに師団本体の渡河を待たずにサングイネットへの道を進んだ。

 ロンコからサングイネットへの道は2つあり、1つはロヴェルキアーラ(Roverchiara)までアディジェ川沿いを進み、レニャーゴとサングイネットの間に位置するチェレーア(Cerea)に進む道。

 もう1つはイーゾラ・リッツァとアスパレット(Asparetto)を経由してサングイネットに直接行く道である。

◎ロンコからサングイネットへの2つの経路

 サングイネットへの道で先行するミュラはロヴェルキアーラからチェレーアに向かう道を選択した。

 恐らく、チェレーアにはメナゴ川が流れているため、橋を占領し防衛線を構築することでオーストリア軍の足止めを行おうとしたのだろうと考えられる。

チェレーアでの戦闘

 ミュラ率いる騎兵隊が先行し、ロヴェルキアーラに到達したピジョン旅団はその後に続いてサン・ピエトロ(San Pietro)に前進した。

 しかし、ミュラ率いる騎兵隊がオーストリア軍の哨戒網に引っかかった。

 これによりヴルムサーは午前に前衛部隊を形成しているオット旅団の前衛騎兵隊をチェレーアに派遣した。

 ミュラ率いる騎兵隊は非常に激しい突撃によりオット旅団の前衛騎兵隊を打ち破り、サーベルでオット旅団本体の元に追い返した。

 しかしミュラ率いる騎兵隊の兵力は少なかったため、新たなオーストリア騎兵隊の出現により占領したチェレーアを維持することはできず村を越えて撤退した。

 ミュラの選択は失敗であり、もしサングイネットに直接行く道を選択していたらオーストリア軍の哨戒網に引っかからずにサングイネットで先回りができただろう。

 戦いの音を聞いたピジョンはすぐにチェレーアに向かって前進した。

 そしてチェレーア村とメナゴ(Menago)川に架かる橋を占領し、敗走したミュラ率いる騎兵隊の集結を支援するために村の前で戦いを繰り広げた。

 この攻撃によってオットはチェレーア村のメナゴ川に架かる橋の重要性を認識した。

 チェレーア村の橋を奪われた場合、オーストリア軍はマントヴァ要塞への最短ルートを失うだけでなく、南へと追いやられ包囲される危険性が高まるのである。

 オットはチェレーアの正面を1個大隊で攻撃させ、別の1個大隊で左側面を攻撃させ、騎兵隊にこれら2つの攻撃を支援させた。

◎チェレーアでの戦闘

 ピジョンはこの同時攻撃に耐えることはできず、砲兵隊は打ち倒されて2門の大砲を放棄することを余儀なくされた。

 ピジョンは旅団を500~600mほど後退させて別の2門の大砲の支援下で態勢の立て直しを行った。

 しかし新たにカール大公の弟ジョセフ大公率いるオーストリア騎兵の一団が現れ立て直し中のピジョン旅団を倒し、さらに2門の大砲は奪われた。

 これによりピジョン旅団は分断されロンコとの連絡線が脅かされることとなった。

 ボナパルトは大砲の音を聞くとヴィクトール旅団を急ぎ前進させた。

 しかし、ヴィクトール旅団は疲れ果てており、前進もままならなかった。

 それをアディジェ川を渡ったばかりのランポン旅団が拾い上げ、ロンコへの道を防衛し、ピジョン旅団の退却を支援した。

 この戦闘によりチェレーアはオーストリア軍が占領し、フランスの2個旅団は退却を余儀なくされた。

危機の中の光明

 1796年9月11日、マントヴァ要塞への道が遮断されようとしたことに危機感を持ったヴルムサーは、レニャーゴに約1,600人の部隊を残し、すぐにカステル・ダーリオ(Castel D'ario)に向かって行軍を開始した。

 しばらく行軍し、ヴルムサーはティオーネ(Tione)川の背後にフランス軍がいることを察知した。

 ヴルムサーはこの時包囲の危機に晒されていた。

 正面のティオーネ川の背後にはマントヴァ要塞を封鎖している師団の一部と考えられるフランス部隊がおり、右側背からはマッセナ師団が迫り、背後ではオージュロー師団がレニャーゴに到達しようとしていたのである。

 ヴルムサーの視点では、正面のソーゲ師団約10,000人、右後背のマッセナ師団約13,000人、背後のオージュロー師団約9,000人に包囲されているように見えていた。

 しかしそこへ住民が自ら志願して、フランス軍がまだ落としていない橋のあるヴィッリンペンタ(Villimpenta)へと案内をした。

◎ヴルムサーの状況と危機からの脱出

 ヴルムサーはそこで主力を率いてカステル・ダーリオを占領する準備を行った。

ソーゲ師団による足止め

 1796年9月11日、ソーゲはマントヴァ方向からヴルムサーの進路を封鎖するために、マントヴァ要塞を封鎖している師団の一部でカステル・ダーリオへ進軍する命令を受けた。

 ソーゲは要塞の防御壁を偵察した後、ラ・サルセッテ(La Salcette)将軍、ソンドス(Sondos)将軍、アザー(Hazard)将軍を残して、橋と道を切断に向かった。

 そしてマントヴァ要塞駐屯軍の分遣隊が派遣されてきたとしても対応できるよう、通りすがりにカステルベルフォルテ(Castelbelforte)に約200人の兵士を残して後方を覆った。

 同じ目的でビガレッロ(Bigarello)にペルティエ将軍率いる600人の兵士を配置し、ソーゲ自身はカステル・ダーリオに到着した。

 ソーゲはカステル・ダーリオに到着する前に2つの橋を落としていた。

 次に落とすべきソルガ橋(Ponte Sorga)はカステル・ダーリオから約3㎞のところに架かる橋であり、ノガラ(Nogara)からカステル・ダーリオの主要道路上にあり、ヴルムサーの動きを止めるための最重要の橋だった。

 9月12日朝、ソーゲはオーストリア軍の動向を探るためにソルガ橋から部隊を派遣したが、オーストリアの部隊は発見できなかった。

 そのためソーゲはカステル・ダーリオに架かるソルガ橋の破壊に集中した。

カステル・ダーリオでの戦闘

 ソーゲが9月12日の朝にヴィッリンペンタ方向に派遣していた偵察部隊がカステル・ダーリオに帰還した。

 そしてそこで多くのオーストリア騎兵を発見したことを報告した。

 偵察部隊の報告は3つの川を混同しており、不明瞭な部分が多かったが、ソーゲは約200人の部隊を派遣した。

 ヴィッリンペンタに本当にオーストリア軍がいたのか確認するためという理由もあるが、ヴィッリンペンタの橋を破壊することが主な目的だった。

 しかし200人の部隊は1㎞ほど進むとすぐにカステル・ダーリオに戻ってきた。

 ヴィッリンペンタはすでにオーストリア軍によって占領されていたのである。

 ソーゲはすぐさまヴィッリンペンタからロンコフェッラーロまでの道に偵察部隊を派遣した。

 この時ヴルムサーはすでにオット将軍率いる前衛旅団をヴィッリンペンタのすぐ西に位置するロンコフェッラーロ(Roncoferraro)に進ませ、マントヴァ要塞総司令官カント・ディールに支援を求める書簡を送っていた。

 カント・ディールはその期待に応え3個大隊と2個騎兵中隊をヴルムサーの元に送った。

 ヴルムサーはファンク将軍をカステル・ダーリオへ向かわせ、その支援としてマントヴァ駐屯軍からの支援部隊も別の道からカステル・ダーリオに向かわせた。

 そしてオット将軍をロンコフェッラーロに残し、自らはマントヴァ要塞の斜堤に軍を配置した。

 ソーゲ将軍はオーストリア軍が2つの道からカステル・ダーリオに迫ってきていることを察知した。

 建設していた小さな前哨基地は蹴散らされ、フランス軍は無秩序に敗走していた。

 この時点でソーゲの手元には僅かな手勢しかいなかったためビガレッロ(Bigarello)から500人、カステルベルフォルテの200人をカステル・ダーリオに召集した。

 ソーゲはそれを4つに分割してそれぞれ150人~200人を率い、左翼サン・ティレールはティオーネ川沿いの道を、右翼シャルトン(Charton)はモリネッラ川沿いの道を、中央ボーモントはその間の道を前進させた。

 そしてカステル・ダーリオに予備部隊を残した。

 ファンク将軍がカステル・ダーリオの部隊に攻撃を始めるのを待っていたオット将軍は、午後3時頃、ロンコフェッラーロから1個歩兵大隊、5個騎兵中隊を率いて出発した。

 オット旅団はモリネッラ川沿いの道を進み、ヴィッリンペンタへの道の西側の森の端にいるシャルトン将軍の部隊と遭遇した。

◎カステル・ダーリオでの戦闘

 オットはそれを発見するとすぐに正面から歩兵300人と1個騎兵中隊で攻撃し、その側面に分遣隊を回り込ませ、2門の大砲を置いて斜めから砲撃を開始した。

 シャルトンは囲まれていることを知ると方陣を組みゆっくりと後退を始めた。

 しかしオットはソーゲからシャルトンを分断するために歩兵の分遣隊と3個騎兵中隊を投入した。

 この戦闘はフランス軍が圧倒的に数的不利な状況にあり、長く続かなかった。

 そしてシャルトン将軍は大砲の砲撃を受けて戦死した。

 ソーゲは中央を進んでいたボーモントを呼びシャルトンの元に向かうよう命令した。

 ボーモントが駆け付けてくるまでの間、オットの騎兵隊はカステル・ダーリオに迫った。

 そこへデュゴロ(Dugoulot)将軍が約250人の歩兵とともにオーストリア騎兵隊の右側面に到着した。

 騎兵隊はデュゴロ旅団に気づき戦闘が始まった。

 この戦闘によりデュゴロは負傷し、指揮の継続は不可能となった。

 指揮官不在のデュゴロ旅団は突撃を仕掛けたが、この時平原にいたため逆にオーストリア騎兵隊に押しつぶされた。

 デュゴロ将軍含め、生き残った者はすべて捕虜となった。

 この時、後方からいくつかの分遣隊がカステル・ダーリオに集結し、ソーゲの予備兵力は増強していた。

 ソーゲはサン・ティレール将軍とボーモント将軍の元に25人~30人の増援を続けて送った。

 ボーモントは右側から迫り来るオット旅団に対抗した。

 9月12日夜7時頃、軽砲が各道路に運ばれると形勢はフランス軍有利に傾いていった。

 オーストリア軍は打ち減らされ、オーストリア軍の足元には人や馬の死体が散らばっていた。

 そして遂にオーストリア軍は後退して行った。

 ソーゲの手元に騎兵が40騎いたが、疲労のため追撃はできなかった。

 9月12日夜9時頃、キルメイン将軍が到着した。

 ソーゲは騎兵50騎をキルメインに与え、ロンコフェッラーロに向かわせた。

 そしてキルメインはロンコフェッラーロの前にオーストリア軍が野営しているのを発見した。

 同時にミュラの前衛がノガラ(Nogara)に到着したことを告げる書簡を受け取り、ボナパルトの指示通りソーゲと合流するようミュラに伝えた。

 キルメインと話し合い、キルメインが後衛を務めてカステル・ダーリオからの撤退支援を行うことで合意した。

 そこへオーストリア軍が現れ、追跡中の部隊を追い払った。

 午後10時、ソーゲは出発しすべての部隊を回収しながらゴーイト(Goito)に向かった。

 その後、オット旅団はチッタデッラ要塞の北側に布陣し、ラ・ファヴォリータに前衛を置いた。

 ヴルムサー本体はチッタデッラ要塞東側の斜堤に布陣し、前衛旅団をカステルベルフォルテに配置した。