バッサーノの戦役 05:ダヴィドウィッチ師団の脱落とバッサーノへの追跡
Battle of Bassano 05
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ロヴェレトの戦い:約32,000人 第一次バッサーノの戦い:約22,000人 |
ロヴェレトの戦い:数百人 第一次バッサーノの戦い:約400人 |
オーストリア | ロヴェレトの戦い:約14,000人 第一次バッサーノの戦い:約8,100人 |
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗 第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗 |
ラヴィースでの戦闘
1796年9月5日正午過ぎ、ヴルムサーがバッサーノへ向かったことを知ったボナパルトはすぐにヴルムサーの動向を探るために偵察部隊を放った。
そして偵察部隊からの報告で、ヴルムサーが整然とバッサーノに向かっていることを知ると、ボナパルトはラヴィース(Lavis)のダヴィドウィッチを追い払う時間があると判断した。
トレントのすぐ北に位置するラヴィースのダヴィドウィッチ師団をそのままにしておくことは後方を脅かされる危険に常にさらされることを意味する。
そのためボナパルトはヴルムサーと相対する前にダヴィドウィッチ師団を追い払い、後方を脅かされる危険を取り除く必要があった。
ボナパルトはマッセナとともにマッセナ師団の前衛の先頭におり、ラヴィースに向かって動き出し、ヴォーボワ師団にもラヴィースに向かうよう促した。
1796年9月5日午後6時頃、ボナパルトとマッセナはラヴィースのダヴィドウィッチの前に到着した。
ダヴィドウィッチはアヴィーシオ(Avisio)川で防衛線を構築しており、唯一の橋であるヴォディ(Vodi)橋のすぐ後ろには山がそびえ立っていた。
そして橋の北側には多数の大砲が並べられ、オーストリア軍は有利な位置を占めていた。
マッセナ師団は攻撃を行ったが、橋の防御は固く、最初の攻撃は撃退された。
アヴィーシオ川を挟んでの砲撃の応酬となったが、そこへヴォーボワ師団が到着した。
ボナパルトはダルマーニュ旅団にはヴォディ橋を渡るよう命令し、ミュラには浅瀬を見つけてアヴィーシオ川を渡るよう命令した。
ダルマーニュは橋に向かって急行し、ブドウ弾が降り注ぐ中、怯まずに橋を渡った。
騎兵の分遣隊の先頭にいたミュラは浅瀬を見つけ、アヴィーシオ川北岸に足場を築いた。
ルクレールはオーストリア軍に気づかれないよう2㎞ほど先の狭隘な渓谷の入り口で待ち伏せをした。
ダルマーニュにヴォディ橋を奪われ、ミュラに退路を脅かされたダヴィドウィッチは急速に師団をサロルノ(Salurn)、ノイマルクト(Neumarkt)方面に撤退させた。
◎ラヴィースでの戦闘
その撤退中、オーストリア軍の騎兵隊と歩兵の一部がルクレールの部隊と遭遇し、一斉射撃と銃剣突撃により降伏を余儀なくされた。
恐らくルクレールはナーヴェ・サン・フェリーチェ(Nave San Felice)辺りで待ち伏せをしたのだと考えられる。
このラヴィースでの戦闘の間、オージュロー師団は険しい山の地形に前進を阻まれ、アディジェ渓谷を通ってトレント方面に向かった。
オージュローからブレンタ渓谷方面に向かう旨の連絡を受け取ったボナパルトは、オージュローをレーヴィコ(Levico)に向かわせた。
ヴルムサーの誤算
フランス軍がアヴィーシオ川に到着する少し前、セボッテンドルフ師団はオスペダレット(Ospedaletto)、カスダノウィッチ師団はボルゴ・ディ・ヴァルスガーナ(Borgo di Valsugana)に到着しており、メサロス師団はバッサーノとヴィチェンツァにいた。
9月5日午後5時半頃、バッサーノに向かっていたヴルムサーはカッリアーノでの戦闘の第一報を受け取った。
ヴルムサーはトレント周辺に展開しているはずのロイス旅団に対し、サルカ(Saruca)、モリーネ(Moline)、ステーニコ(Stenico)に配置した部隊を、僅かな部隊だけを残して夜の内にトレントに退却させ、そこで新たな命令を待つよう命令を送った。
同時にヴルムサーはタルヴィジオ(Tarvisio)に駐屯しているシュビルツ将軍にフリウーリ軍に加わるよう命じ、ザッハ(Zach)大佐にはダヴィドウィッチ師団に何が起こったのかについての正確な情報を収集するよう、そしてダヴィドウィッチと防衛策を講ずるよう指示した。
この時点でトレントは既にフランス軍の手に落ちており、フランス軍はラヴィースへ向けて北上していた。
ロイス旅団はダヴィドウィッチと行動を供にしていたため、ヴルムサーのロイス旅団に対する命令は実行されることは無かった。
その後、ロヴェレトの戦いに関する詳細な報告を受け取った時、ヴルムサーは最初、バッサーノに向かって行軍しているカスダノウィッチ師団とセボッテンドルフ師団を呼び戻し、アディジェ川流域を取り戻すことを計画した。
しかし、カスダノウィッチ師団とセボッテンドルフ師団を合わせたとしても9,000人ほどであり、約11,000人を有するメサロス師団はバッサーノとヴィチェンツァにいるためトレントに向かうには遠すぎた。
そしてダヴィドウィッチ師団とは完全に分断されており連携は難しく、約20,000人~30,000人と推定されるフランス軍と相対するには明らかに分が悪かった。
そのためヴルムサーは当初の計画通りに、バッサーノに向かわざるを得なかった。
フランス軍の後方を脅かすはずだったが、逆に自身の後方を脅かされることになりヴルムサーの計画は大きく狂い始めていた。
ダヴィドウィッチ師団の脱落と両軍の動き
1796年9月6日、ダヴィドウィッチはサロルノとノイマルクトに向かって後退を続けていた。
チロルの猟騎兵とクロアチアの部隊がカヴァレゼ(Cavalese)を占領し、ダヴィドウィッチ師団の左側面を覆っていた。
ボナパルトはラヴィースでの戦いの後、すぐにダヴィドウィッチ師団の左翼側に部隊を向かわせてダヴィドウィッチを封じ込めた。
その後、チロル方面はヴォーボワ師団のみで十分と考えヴォーボワ師団をアヴィーシオ川に残し、マッセナとオージュローにボルゴ・ディ・ヴァルスガーナとオスペダレットへ向かうよう命令した。
◎フランス軍の動き
9月2日にマッセナ師団に渡した食糧は4日分であり、この日で食糧は無くなるはずである。
しかし、戦いが始まってから食糧についての言及は無い。
そのためいつの時点かは不明だが、食糧が供給されたか、オーストリア軍から奪ったか、現地調達を行いつつ初めに供給された4日分の食糧を長持ちさせたのだろうと考えられる。
オーストリア政府はヴルムサー率いるイタリア軍の強化のために内オーストリア(Austriche interieure)から7個大隊を派遣していた。
7個大隊の内の5個大隊はポンテッバ(Pontebba)とフリウーリ(Frioul)を経由しヴルムサーとの合流を企図しており、残りの2個大隊はダヴィドウィッチ師団のいるチロル方面の強化のためにノイマルクトに向かっていた。
◎オーストリア軍の動き
メサロスはヴィチェンツァを通過してオルモ(Olmo)に向かい、師団の前衛部隊はモンテベッロ(Montebello)で宿営した。セボッテンドルフはバッサーノの野営地に到着し、カスダノウィッチはプリモラーノ(Primolano)で夜を過ごした。
プリモラーノでの戦闘
1796年9月7日の朝、ラヌッセ(Lanusse)将軍率いる部隊がカスダノウィッチ師団の後衛とプリモラーノで遭遇した。
カスダノウィッチは谷の幅が狭まるプリモラーノで師団のおよそ3分の2の兵力で後衛旅団を形成し、フランス軍が追跡してきた場合に備えていたのである。
カスダノウィッチ師団の後衛旅団は、ガヴァシーニ(Gavasini)大佐率いる約2,800人が谷の幅が極端に狭くなっているプリモラーノとその後ろに位置するコヴォロ(Covolo)砦の一帯を防衛していた。
オージュローはオーストリア軍の正面に散兵として5番軽歩兵半旅団の内の1個大隊を配備し、5番軽歩兵半旅団の内の2個大隊でブレンタ川の方からオーストリア軍左翼側に回り込ませ、それを2門の大砲で支援した。
◎プリモラーノでの戦闘
正面に配備された大隊は、列の前に配備された軽砲の支援下でオーストリア軍に対して真っ直ぐ前進して幾度もの近接戦を行った。
正面からの幾度もの近接戦に加え、左翼側にも回り込まれ、ガヴァシーニ大佐はプリモラーノからの後退を余儀なくされた。
コヴォロ砦での戦闘
5番軽歩兵旅団は左側にある標高約800mのコル・デッレ・スピナ(Col delle Spina)山の尾根伝いに登り、ガヴァシーニ大佐の部隊と射撃戦を開始した。
ガヴァシーニ大佐は、プリモラーノから南東に2㎞ほどのところにあるコヴォロ砦で部隊を結集させ、再度抵抗を行った。
コヴォロ砦は自然の大きな岩の裂け目を利用した砦であり、外見上は単なる岩の穴だった。
岩の穴の中は広く、泉があり、兵舎や教会、パンを焼くオーブンなども備えられていた。
オージュローは同時に第4半旅団の内の約300人にブレンタ川を渡らせ、コヴォロ砦の南西側からオーストリア軍の後方を脅かした。
しかしコヴォロ砦への入り口は見つからず、フランス軍は長い間攻撃を続けていたが効果があるように見えなかった。
そのためフランス軍が一方的に損耗しているようだった。
戦闘中、1人の伍長が銃眼を通して砦に入る方法を見つけて報告した。
第4半旅団がすぐに入り口に駆け付け、門を無理矢理こじ開けた。
オーストリア軍は恐怖に陥り、ガヴァシーニ大佐は反対側の門から急いで退却した。
※コヴォロ砦は上部の岩の裂け目と下部の主要道路に設けられた2つの門で構成されている砦であり、専用リフトのみで上部に行くことができたが、1782年に武装解除されていた。
そのためこのコヴォロ砦での戦闘時点でどのような形で残っていたのか不明である。
しかし、マッセナの回想録に「砦の入り口が不明なこと」、「入り口を見つけてオーストリア軍が反対側の門から退却したこと」などの内容の記述があることから、上部も下部も残っていたのではないかと考えられる。
◎コヴォロ砦
戦闘の経過からして恐らく、戦闘開始時点で上部からの攻撃などの妨害によりコヴォロ砦の全貌は不明であり、オージュローはそれを探りながらコヴォロ砦を取り囲んだ。
そして対岸からコヴォロ砦を銃で狙っていた伍長が下部の門を発見して報告した。
報告を受けたオージュローは激しい抵抗に会いながらも下部の北側の門をこじ開け、ガヴァシーニ大佐は下部に降り損ねた上部の部隊を置き去りにして南側の門から退却したのではないかと考えられる。
◎コヴォロ砦での戦闘
ミヨー(Jean-Baptiste Milhaud)将軍率いる第5近衛竜騎兵隊は第10猟騎兵隊の分遣隊の支援を受けてすぐに追跡を開始した。
ガヴァッシーニ大佐は狭い渓谷の出口から1㎞ほど離れたところで部隊の再編制を行い、フランス軍に三度の抵抗を試みようとした。
しかしミヨーは小さな平原に出たところで再編成中のガヴァシーニの部隊を発見。突撃して降伏させた。
※小さな平原の場所は、ブレンタ川とチズモーン(Cismon)川の合流地点付近と考えられる。
ガヴァッシーニ大佐はミヨーの突撃により負傷して捕らえられ、フランス軍はその他にこの戦闘で2,000人の捕虜、5門の大砲、いくつかの旗を獲得した。
その後、日が暮れるとフランス軍はチズモーン・デル・グラッパ(Cismon del Grappa)で野営した。
※フランス側の資料には捕虜約2,000人を捕らえたと記載されているが、ガヴァシーニ大佐の部隊は約2,800人であり、死傷者も含めるとカヴァシーニ大佐の部隊はほとんど失われたことになる。
しかし、多くの逃亡者がバッサーノに到着している記述があることから、捕虜の実数は2,000人を大きく下回るのではないかと推察される。