バッサーノの戦役 03:オーストリア軍の侵攻計画とフランス本国の戦略の崩壊
Battle of Bassano 03

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

オーストリア軍ラウアー中将の侵攻計画

 ラウアー中将は軍を2つに分割し、1つはポンテ・ディ・レグノ(Ponte di Legno)からアラ(Ala)までのチロルの国境を防衛する任務を負っており、約14,000人を擁し、3個旅団に分かれていた。

 この任務はダヴィドウィッチに一任された。

 もう1つは3個師団約20,000人でヴァルスガーナ(Valsugana)を通過しブレンタ渓谷を下り、9月7日にバッサーノに集結し、ヴェローナ方面でフランス軍と相対しつつレニャーゴの橋を手に入れマントヴァ要塞救出に向かう。

 その後、ミンチョ川を北上しながらフランス軍を挟撃するという計画だった。

◎第二次マントヴァ要塞救出計画

Bassano Campaign -Austrian Army Plan-

 ダヴィドウィッチ師団約14,000人はマッセナ師団とヴォーボワ師団計23,000人ほどと相対しており数的劣勢ではあるが強固な地点をいくつも占領しているため防衛は十分可能である。

 メサロス師団は約11,000人であり、オージュロー師団約9,000人と優勢に戦える兵力を有している。

 カスダノウィッチ師団とセボッテンドルフ師団の合計数は約9,000人であり、マントヴァ要塞を封鎖しているソーゲ師団約10,000人よりも少ないが、弱体化しているとはいえマントヴァ要塞駐屯軍を合わせれば約19,000人となり、ソーゲ師団に対して数的優勢を確保できるのである。

 もしオーストリア軍が計画通りミンチョ川を奪取できた場合、フランス軍はポー河を超えて撤退し、ロンバルディアからの退却を強いられるだろう。

 この計画は8月28日に決定されたのだが、その日の内に、8月24日に行われたフリードベルグの戦い(Battle of Friedberg)でカール大公軍の左翼がモロー将軍に敗北したという連絡が届いたため審議に戻された。

 しかし、その後、同日8月24日に行われていたアンベルクの戦い(Battle of Amberg)でカール大公軍がジュールダン率いるサンブレ・エ・ムース軍を破ったという報が届くと作戦の実行が決定された。

 カール大公軍の勝利によってドイツ方面においての形勢が逆転しつつあり、ライン・モーゼル方面軍がチロルを攻撃する可能性が低くなったのである。

カール大公によるアンベルクの戦いの勝利

 1796年8月下旬、カール大公軍はライン・モーゼル方面軍と、ヴァンテンスレーベン(Wilhelm von Wartensleben)率いる下ライン川自治軍はサンブレ・エ・ムース軍と相対していた。

 カール大公は数的劣勢な中、この数か月の間、冷静にどちらかの軍に対する反撃の機会を窺っていた。

 そして8月23日、遂にその瞬間が訪れた。

 ジュールダン率いるサンブレ・エ・ムース軍の進軍が速かったためその脇腹に隙ができたのである。

 ジュールダンとモローとの間にはドナウ川が流れている上に離れ過ぎており、カール大公はジュールダンの右側面を突ける位置にいた。

 そしてジュールダンは正面のヴァンテンスレーベン軍約34,000人に気を取られていた。

 カール大公はその機会を逃すまいとすぐに動いた。

◎アンベルクの戦い

 ラトゥール騎兵大将率いる左翼約30,000人をモローと相対させ、8月17日、自身は約27,000人を率いレーゲンスブルク(Regensburg)へ向かった。

 そして8月22日、ジュールダン将軍麾下のベルナドット師団約6,000人をダイニングの戦い(Battle of Deining)で撃退し、ベルナドット師団を追いノイマルクトで戦った。

 同時にヴァンテンスレーベン軍に対して後退を止めて反撃に転ずるように命令を出した。

 23日午後、シュヴァルツェンフェルトとシュヴァンドルフの間でナーブ川を挟んで防衛を行っていたヴァンテンスレーベン軍約13,000人は反撃に転じ、その攻撃の激しさからジュールダンは午後11時頃にアンべルク(Amberg)に向かって後退を始めた。

 ノイマルクトを防衛していたベルナドットは粘り強く戦ったが、数的劣勢により23日深夜から24日未明にかけて北西に撤退した。

 ベルナドット師団が後退したことを知ったジュールダンはアンベルクから撤退し西側から近づいて来ていた右翼のチャンピォーネ師団と合流した。

 24日の朝、カール大公軍はアンべルクの南西に位置するカストル(Kastl)に到達し、アンベルクのヴァンテンスレーベン軍とともにジュールダン軍を挟撃して勝利を収めた。

 ジュールダンの早めの撤退により決定的な勝利とはならなかったものの、カール大公によるアンベルクでの勝利は、その後モロー将軍をウルムまで後退させる要因となり、サンブレ・エ・ムース軍、ライン・モーゼル方面軍とイタリア方面軍との合流を防ぎ、ドイツ方面での戦況を一変させる起点となったのである。

 これによりナポレオンとモローの合流は不可能なものとなり、フランス政府の描いた戦略は崩れ去ることとなった。