ベルティエ将軍によるローマ占領とローマ共和国の樹立
Death of General Duphot(1797)
※「1798年、フランス軍のローマ入城(Entrée de l'armée française dans Rome en 1798)」。フランス革命博物館(Musée de la Révolution française)。2月15日にベルティエがポポロ門を通ってローマに入城した場面。
中央付近に立つ柱のようなものは、初代ローマ皇帝アウグストゥスの命によりエジプトからローマに持ち込まれたフラミーニオ・オベリスク(Flaminio Obelisk)、奥左の教会はサンタ・マリア・イン・モンテサント教会(Basilica di Santa Maria in Montesanto)、奥右の教会はサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会(Chiesa di Santa Maria dei Miracoli)。
カンポ・フォルミオ条約の実行
1797年12月28日、デュポー将軍の死亡した日、マインツの受け渡し準備が整ったためパリのボナパルトは嫌々イタリア方面軍総司令官となったベルティエにフリウーリ、ヴェネツィア、ヴェローナから退去するよう命じた。
ヴェネツィアから退去する前に、すべての軍艦がいかなる任務も遂行できないことを確認するよう注意し、武装解除して任務を停止している軍艦とフリゲート艦を沈めるよう指示した。
そして大砲や倉庫内の軍需物資や食糧も持ち出すよう指示した。
ただ、レニャーゴだけはマインツの占領報告が来るまでは理由を付けて保持するよう付け加えた。
そして1798年1月に入り、イタリア方面軍から将軍達を続々とイングランド方面軍へ異動させた。
神への祈り
デュポー将軍の死についてローマ政府は自身の正義を貫き通すことも、フランスの不正義に同意することも難しい状況にあった。
ローマはフランスの敵に決して同意したことはなく、そのため今後も手を取り合って行きたいことをジョゼフに伝えた。
しかしジョゼフは、1793年1月13日のフランス人ジャーナリストで革命家であるバスヴィル(Basseville)がローマで殺害された事件に関して、裁判の結果、殺人者達は無罪となり今も何の処罰も受けずに生活していることを指摘し、パスポートを要求して出国したいと抗議した。
大使がローマを去るということは戦争の予兆を意味していた。
差し迫った事態にローマ政府は、控えめな言葉で起こった事故に対して再び抗議し、ローマに責任はないと断言した。
しかしフランス政府とボナパルトの意図はローマとの戦争であり、ジョゼフはそれを理解していた。
ジョゼフはローマでローマ政府に敵対的な行動をすることもなく、馬に乗って急いでトスカーナに向けて出発した。
道中、ローマの裏切りを広めて反乱を煽り、パリに到着するとローマと戦争すべきであると主張した。
教皇はこの差し迫った危機を回避するために、祈り、断食、苦行などを行なって神や聖霊に救いを求めることを命じ、武器を準備した。
ローマへの進軍
1798年1月11日までの間にボナパルトの元にローマでの事件とデュポー将軍の死の報告が届けられた。
ボナパルトは状況を把握するとすぐにベルティエ将軍にイタリア方面軍を再編成して、新たな遠征軍を編成するよう命じた。
遠征軍は8個半旅団、3個軽騎兵連隊で構成され、できるだけ早くアンコーナで合流することが求められた。
その後、素早くローマへ進軍してこれを占領し、ナポリ王を牽制できるようにする必要があった。
そして同日、ベルティエがイタリア平定を終えた後、イングランド方面軍の参謀長に迎え入れることが伝えられた。
1月24日時点でのイタリア方面軍の兵力は、対ナポリ王国ではフランス軍16,000人、ポーランド軍5,000人、トゥーロンに2,000人、合計23,000人であり、ナポリ王国軍を恐れさせるには十分だろうと考えられた。
対オーストリア帝国:フランス軍25,000人、チザルピーナ共和国軍10,000人、合計35,000人であり、オーストリア軍がイタリアでの国境に配備している推定80,000人の兵力に比べれば、この兵力は各防衛地点を占領して防衛軍を形成するには極めて少ないと考えられた。
しかし、オーストリアとは和平が成立しており、もし戦争が再開された場合でもイングランド方面軍に割いた兵力をドイツ方面に戻し、そこからイタリア方面へ進軍すればイタリアにおける兵力差は全体として解消される。
そのためベルティエは躊躇無くローマへの遠征軍を編成し、マッセナ将軍に指揮を任せてローマへ出発させていた。
マッセナは前衛をダルマーニュ将軍、後衛をレイ将軍に指揮させてアンコーナを目指した。
ベルティエ将軍によるローマの占領
1月29日、アンコーナに到着したベルティエはローマへの進軍を宣言した。
これに対し教皇は諦め、軍の指揮官達に抵抗せずフランス軍の進軍速度に合わせて後退するよう命じた。
セルヴォニ将軍率いる旅団がダルマーニュ師団の前衛となってローマへ進軍し、レイ将軍率いる師団は後衛としてトレンティーノ周辺を守った。
2月10日早朝、ダルマーニュ師団はローマの丘に現れて塹壕を掘り、大砲を設置し始めた。
しかし教皇は降伏し、フランス軍は戦うことなくローマに入城し、朽ち果てようとしているサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)から教皇軍の守備隊を排除して占領し、セルヴォニ将軍は市内の主要施設の占領を命じた。
2月11日に凱旋式が執り行われ、ベルティエはクイリナーレ宮殿(Palazzo del Quirinale)に滞在した。
この時、ローマ市民の中には「ボナパルトが来た。」と思った人もいたと言われている。
人々、物質、儀式、宗教への敬意を誓うポスターが壁に貼られ、教皇への敬意を表すためにイタリア語の分かるコルシカ島出身のセルヴォニ将軍を教皇の元に派遣した。
ローマ共和国の樹立
2月15日、当時23年間の在位を終えていた教皇の戴冠記念日を記念して、ローマ全土で突然、自由を求める人々の大規模な運動が起こった。
運動の指導者達はチザルピーナ共和国憲法を模倣してフランス語からイタリア語に翻訳した憲法をベルティエの元に持ち込み、新しい共和国を樹立することをベルティエに提案した。
厳粛な雰囲気が漂う中、フランスの将軍は凱旋門のようにポポロ門(Porta del Popolo)を通って入場し、ベルティエの後ろと周囲には優秀な士官たちと各連隊から選ばれた騎兵100騎の壮麗な列が続いた。
軍楽隊の楽器が大きな騒音とともに演奏され、集まった人々は拍手を送った。
ベルティエはすぐにポポロ門に現れ、ローマ人民の名において指導者たちから王冠を授与された。
ベルティエは王冠を受け入れ「この王冠は正当にボナパルトのものであり、彼の寛大な事業がローマの自由を準備した。私はこれを受け取り、保管し、ローマ人民の名において(ボナパルトに)送る。」と宣言した。
そして、カンピドーリオの丘に登り、アンコーナも含むローマ共和国の成立を宣言し、フランスの名においてそれを認め、自由を称賛し、ローマ人をブルートゥスとスキピオの息子と呼んだ。
その日の残りの時間と次の夜には、歌や踊り、あらゆる形式のお祝いが行われた。
ピウス6世の追放とその後
教皇が統治していた国が滅亡し、略奪されていく中、教皇はヴァチカンの自室に留まり続けた。
教皇は身辺警護のためにスイス人衛兵を配置していたが、ベルティエはこれを排除してフランス人衛兵と交代させた。
フランス兵達は教皇を殺したほうが罪が軽いのではないか言って教皇を嘲笑い、セルヴォニ将軍に教皇から主権を剥奪するよう命令が下った。
セルヴォニは教皇の自室に入り、主権の放棄を迫った。
ピウス6世は高齢ながら矜持を保ち「この世の主権は神から、そして人間の自由な選択によって与えられたものである。」と答えた。
そして2月18日、教皇の心を折ることができなかったベルティエは教皇に2日以内にローマを去るよう命じた。
ピウス6世は「力には抵抗できない。」と答え、2月20日、ローマから追放されてトスカーナ州に向かった。
そしてシエナのアウグスティヌス修道院に約3ヶ月間滞在したが、5月26日土曜日午後1時過ぎ、聖霊降臨祭(Pentecostes)前日、マグニチュード4.8の地震が発生した。
地震の規模は大きくなかったものの、様々な要因により市内のおよそ3割の建物が修復不能となる大きな被害となった。
教皇の住まいとなったアウグスティヌス修道院でも金庫室が崩壊し、壁が崩壊し、建物の一部が破壊されたため退去を余儀なくされた。
教皇は避難者達とともに最初はヴェントゥーリ宮殿(Palazzo Venturi)に、次にセルガルディ家(Sergardi)の別荘に避難し、その後5月30日に避難者達と別れてフィレンツェ修道院に移った。
その後ピウス6世はサルディーニャ島のカリアリに移動するようイタリアの共和派から要求されたが、80歳という高齢が航海に耐えられず、しかもサルディーニャ国王が受け入れを拒否したためフィレンツェ修道院に留まることを余儀なくされた。
教皇を受け入れるということはフランスと敵対することを意味していると考えられたためサルディーニャ国王は受け入れを拒否したのである。
そしてピウス6世は主権を放棄することなくフランスに送られ、ローマ追放から約1年半後の1799年8月29日、ナポレオンが士官(少尉)として初めて赴任したヴァランスでの幽閉中、失意の内に世を去った。
在位24年、81歳だった。
ローマの晩課
2月23日、殺害されたデュポー将軍の葬儀がローマ市内全域で行われ、一部の共和党員がパトロールを行った。
その際、略奪は禁止されていたが、パトロール(治安維持)を行なっているにも関わらず教会に入り、神聖な職を祝うための花瓶や調度品を教会から持ち去った。
2月25日、教皇の追放を契機として略奪に耐え兼ねたローマのトラステヴェレの民衆が「ビバ・マリア!」の叫び声とともに暴動を起こした。
暴動はモンティ、ボルゴ、レゴラの各地区にも広がり、教皇の避暑地でもあるカステッリ・ロマーニ(Castelli Romani)地区にさえ火が放たれた。
フランス騎兵隊が暴動を鎮圧するまでの2日間ローマは燃え続けた。
※今日ではこのトラステヴェレの民衆暴動を「ローマの晩課(Vespro Romano)」と呼び、この時に亡くなった人達を追悼するためにたいまつを持った人々が練り歩く記念日となった。
祈りや苦行によって救いを求められた神は教皇領とそこに住む民衆を救うことは無かったが、教皇は主権を放棄しなかったことにより存続し続けることとなった。
参考文献References
・Carlo Botta著「Storia d'Italia (1534-1814):1789-1814, 第3巻」
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻
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