ナポレオンの初恋とオーソンヌでの学び
本記事ではフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトがパリの高等士官学校を卒業してから少尉として任官し、オーソンヌで駐屯していた頃までを紹介しています。
ナポレオンはヴァランスでは甘い日々を、オーソンヌでは対照的に厳しい訓練を行っていました。
ナポレオンの駆け出し士官生活のエピソードです。
ヴァランスへの配属と士官生活の始まり
ナポレオンは1785年10月にパリの高等士官学校を卒業しました。
卒業後の進路として海軍に入隊することを勧められますが、母レティシアが反対したためヴァランスのラ・フェール砲兵連隊に配属されました。
高等士官学校時代からの友人デ・マジもラ・フェール砲兵連隊に配属されたため、ナポレオンはヴァランスでもデ・マジとともに過ごすことになります。
10月30日にパリを発ち、11月3日にリヨンの南方に位置するヴァランスに到着しました。
クロイッサン通り(Rue du Croissant)(現在のリエトゥナン・ボナパルト通り(Rue du Lieutenant Bonaparte))の角にあるカフェが併設された宿泊施設の2階に部屋を借りました。
この宿泊施設は50代の独身女性であるボウ女史(Mademoiselle Marie-Claudine Bou)が運営しており、月の家賃は恐らく7~9リーブル程だったのではないかと考えられます。
ナポレオンが配属されるラ・フェール砲兵連隊はヴァランスに駐屯しており、約2ヵ月半の基礎訓練を経て、1786年1月10日に少尉の辞令を受け取りナポレオンの正式な士官生活が始まりました。
この時代の少尉の年俸は1,120リーブルで、食事付き(おそらく日に1回)でした。
この基礎訓練中にナポレオンは最初の恋人となるカロリーヌと呼ばれるシャーロット・ピエレット・アン・デュ・コロンビエ(Charlotte Pierrette Anne du Colombier)と出会いました。
ナポレオン17歳、カロリーヌ25歳の時でした。
少尉の辞令を受けた翌日の1月11日、ナポレオンはオルモー広場(Place des Ormeaux)の衛兵所の責任者の任務を与えられました。
初めの7ヵ月は仕事らしい仕事もなく、ヴァランスの応用砲兵学校で学び、コロンビエ家に通いカロリーヌとの関係を育みながら過ごしました。
毎日、クリオール神父の家で朝食をとり、ブリフォー通り(Rue rues Briffaut)とヴェルヌー通り(Rue Vernoux)の角にある店に行き1ソルで小さなホットパイを購入していたといわれています。
ナポレオンはラ・フェール砲兵連隊に所属していた時期に、ラリボィジエール(Lariboisière)中尉とソルビエ(Sorbier)中尉というかけがえのない友人と出会い親交を深め、デ・マジやラリボィジエール、ソルビエ等と軍から支給される昼食をともにしていました。
※ナポレオンとこの3人との友情は長く続き、将来、デ・マジはナポレオンの補佐役として、ラリボィジエールとソルビエは将軍としてナポレオンを支えることになります。
ある時、ナポレオンはなけなしの給料を奮発し半球状のガラスがあしらわれた指輪をカロリーヌに贈りました。
ガラスの下には象牙で浮き彫りにされたさくらんぼ摘みの風景がありました。
ナポレオンはカロリーヌと一緒ににさくらんぼを食べに行った時の思い出を指輪にして贈ったのでした。
1786年8月7日、リヨンで絹織物の職人達のストライキが起こり暴動に発展しました。
リヨンの治安維持を目的としてヴァランスの大隊もリヨンに向かい、ナポレオンにも出動命令が下りました。
ナポレオンの17歳の誕生日である8月15日にリヨンに到着しましたが、ナポレオンが到着したころには暴動は治まっており、しばらくリヨンの警備に当たった後、8月30日にヴァランスに戻りました。
ナポレオンはヴァランスに滞在していた時期にルソーの『エミール』を読み、この前後の時期に東ローマ皇帝ユスティニアヌスの『ローマ法大全』を1週間で読破したと言われています。
1786年9月1日、コルシカ島への帰郷許可を貰い、ヴァランスを出発し、9月15日にアジャクシオに到着しました。
ヴァランスから遠のいたナポレオンはカロリーヌと疎遠になり、ナポレオンが初めての休暇を取りコルシカ島に帰郷したことでナポレオンの初恋は終わりを迎えました。
セントヘレナでのナポレオン曰く、カロリーヌとの関係は清いものだったとのことです。
オーソンヌ砲兵学校
コルシカ島に帰郷していたナポレオンでしたが4月に休暇の終わりが近づくと家族の問題の解決と偽って11月まで休暇を引き延ばしました。
そして1787年9月12日にコルシカ島を離れてパリに向かい、11月22日、ナポレオンはパレ・ロワイヤルで売春婦を買い童貞を失いました。
当時のパレ・ロワイヤルでは警察官は立ち入り禁止だったため、市民が政治論議を行ったりする革命家の溜まり場となっており、売春婦や怪しげな物を売る人で溢れていたと言われています。
1787年12月、ナポレオンは理由を付けてさらに翌年6月まで再度休暇を引き延ばしました。
そして1788年1月1日、コルシカ島のアジャクシオに戻りました。
ナポレオンはこの何度も延長された休暇の間、コルシカ島で以前から構想していた「コルシカ史」の執筆をしており、給料もちゃっかりと受け取っていたと言われています。
これ以上休暇を引き延ばす口実を考え出せなかったナポレオンは部隊に復帰するためにリヨンの北方に位置するオーソンヌへ向かい、1788年6月1日、ラ・フェール砲兵連隊と合流しました。
オーソンヌにはヴァランスと同じく応用砲兵学校があり、そこで学びながら治安維持任務を行いました。
1789年4月1日、ナポレオンはブルゴーニュのサール(Seurre)で発生した暴動を100人の分遣隊とともに鎮圧し、7月19~22日に発生したオーソンヌでの暴動でナポレオンはオーソンヌ城の防衛任務を行いました。
オーソンヌ砲兵学校では砲兵による機動戦を提唱したジャン・デュ・テイユ(Jean du Teil)の兄であるジャン=ピエール・デュ・テイユ(Jean-Pierre du Teil)男爵が校長をしており、厳しい軍事演習・軍事教練の中ジャン・デュ・テイユの戦術を学び、ブールセ、ギベールの書いた書籍をはじめ多くの軍事関係の書籍を読み知識を蓄えました。
兵站と軍における商取引や貿易などの後方任務についてもこの時期に学んだと言われています。
午前4時に起き、午後3時に1日1回の食事を取り、ロウソクを節約するために午後10時に就寝するという生活だったと言われています。
デュ・テイユから学んだ「軽量化した野戦砲を運用し、機動的に砲火を集中させて敵部隊の隊列に裂け目を作り、歩兵や騎兵の突撃支援に当たらせる戦術」は後にガルダ湖畔の戦いにおける「カスティリオーネの戦い(モンテ・メドラノへの攻撃時)」やバッサーノ戦役における「ロヴェレトの戦い(ピエトラ城での戦闘)」、「ラヴィースでの戦闘」などあらゆる戦いで役立つことになります。
ブールセの書籍から学んだ「意図的な兵力の分散と再集中(分進合撃)」、「内線作戦(各個撃破)」、「後方連絡線の変更」などもあらゆる戦いでナポレオンが戦略を考える上での土台となりました。
ブールセは山岳戦を想定していましたが、ギベールはブールセの提唱した「師団単位での部隊編成」と「意図的な兵力の分散と再集中(分進合撃)」に着目し、山岳戦以外でもそれらの戦術が有効であると提唱しました。
分散した師団の標準運用はあらゆる地域の正確な地図が必要でありうまく運用ができなかったため、ナポレオンがギベールの本を読んだこの時点では未だ困難なものでした。
ですがナポレオンが実戦を行う頃にはラザール・カルノーの手によって実現しています。
ギベールはさらに補給に関して、兵站部隊での補給に加え軍需物資の現地調達による行軍速度の上昇及び行軍範囲の拡大を主張しており、軍需物資の不足していたフランス共和国に採用され、将来のナポレオンも現地調達の考え方を引き継ぐことになります。
ナポレオンの戦術の基礎はこのオーソンヌ砲兵学校で築かれたのです。
そしてブルゴーニュ地方にあるオーソンヌで活動していたこの時期に、かの有名なワイン「シャンベルタン」に出会ったと噂されています。
オーソンヌはシャンベルタンの生産地であるジュヴレ村(現在のジュヴレ・シャンベルタン村)から約35㎞ほどであり、比較的近かったことからこのような噂が立ったと思いますが、事実かどうかは定かではありません。