デュポー将軍の死
Death of General Duphot(1797)
※「デュポー将軍の死」。デュポーが剣を抜いて階段を駆け下り、群衆に加わってローマ兵達を中庭から追い出すよう煽り立てた場面だと思われるが、デュポーが先陣を切って敵前で剣を掲げ、味方を勇気付けようとしているように見える。
ジョゼフとデュポー及びシャーロックの関係性
1797年秋頃、リグーリア共和国において武装暴動を鎮圧して秩序を回復し、治安体制を確立し、軍と都市への交通路を確保したデュポー将軍はその手腕を買われてローマに派遣された。
デュポー将軍はナポレオンの昔の恋人であるデジレ・クラリーとの婚約をナポレオンに許され、デジレの姉ジュリーの夫でありナポレオンの兄である駐ローマ大使ジョゼフ・ボナパルトに同行した。
デジレとは12月28日に結婚する予定だった。
ジョゼフは軍人では無かったため毅然とした態度を取ることができず、気弱な性格だったため、デュポー将軍やシャーロック(Sherlock)将軍が主導権を握り、ジョゼフの邸宅であるコルシーニ宮殿(Palazzo Corsini)は革命者の溜まり場となっていた。
フランス政府やボナパルトはヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国を滅ぼしたときのようにローマで革命運動を扇動して教皇領内を分裂させ、フランス人が逮捕されたり殺害された場合、軍を動かしてローマを占領するつもりでいた。
ジョゼフもそのことを知っていたが自らは積極的に動かず、デュポー将軍やシャーロック将軍の好きにさせていた。
特にデュポー将軍は教皇領内で反乱の種を蒔くために自ら積極的に動いていた。
ローマでの反乱の予兆
ローマ政府はフランスが反乱を主導していることを察知していた。
そのため、反乱が起こるのを防ぐためにフランス側に気付かれないよう夜間の警備を強化した。
12月27日夜、ローマの警備兵が市内を巡回していたところ、あちこちで小さな円を作っている男達を見つけた。
男達のほとんどはローマ人であり、フランス人もいたが少数だった。
兵士達は慎重に男達に退去を命じ、男達はそれに従った。
ローマの警備局はこれを問題視し、すぐに共和派を見張り、警備を強化するよう命じた。
騒動の始まり
深夜(恐らく12月28日0時過ぎ頃)、警備兵達は別の武装した人々の群衆と遭遇し、解散を要求した。
しかし群衆は警備兵を脅迫し嘲笑した。
群衆と警備兵の間で乱闘が発生し、共和派側に死亡者が出て、騒ぎは街中に知れ渡った。
ヴィラ・メディチ(Villa Medici)でダンスパーティを楽しんでいたジョゼフは騒ぎのことを知ると自らの邸宅に向かった。
その他のパーティ参加者達はシャーロック将軍によって制止され、ヴィラ・メディチから出ることができなかった。
ローマ政府は事件のことを知っており、治安を回復するために歩兵と騎兵隊を派遣した。
そして抵抗する革命者達へマスケット銃を発砲し、一部を負傷させた。
これにより群衆は散り散りとなり、ローマ兵に追撃された。
逮捕されなかった者はコルシー二宮殿に逃げ込み、中庭、アトリウム、階段を埋め尽くした。
コルシー二宮殿はフランス大使の公邸であり、ローマの兵士達は法的に手が出せないでいた。
ローマ兵の指揮官達は、階段の最上段に現れた大使に、反政府勢力へ制止と解散を勧告するよう要請した。
ローマ竜騎兵の到着
ジョゼフは制止も解散も言い渡すことは無かった。
逃げ込んだ者達は大使公邸が安全であることを利用して、ローマの兵士たちを言葉と身振りで侮辱し激怒させた。
その中にデュポー将軍もいて、声を上げ、身振り手振りで煽り立て、帽子を振り回して騒ぎを大きくしようとした。
共和派の群衆はデュポー将軍に煽られ、カンピドリオ (Campidoglio)の丘を占領すると叫び声を上げた。
※カンピドリオの丘はかつてユピテル神殿があり、現在も元老院宮殿(Palazzo Senatorio)が立つローマの中心。「Campidoglio」は英語の「Capital(首都)」の語源となっている。
この時まではまだ大使公邸での戦いは勃発していなかった。
しかし、そこへ騒動を収めるために派遣されたローマの竜騎兵連隊が到着した。
ローマ竜騎兵による反乱の鎮圧とデュポー将軍の死
※デュポー将軍の死
竜騎兵連隊は大使公邸から発せられる侮辱に耐えることができず、コルシーニ宮殿の中庭になだれ込み、すぐに武器を放棄して立ち去らない者は殺すと脅した。
乱闘が起こり、震えが入り混じり、叫び声が上がった。
このような猛烈な騒ぎに、ジョゼフはデュポーとシャーロックを伴って姿を現し、言葉と身振りで騒ぎを静めようとした。
そしてローマ兵の指揮官達を話し合いの場に呼んだ。
しかし大使公邸に逃げ込んだ共和派の群衆の怒りを鎮めることはできず、激怒したローマ竜騎兵も何も聞くことができない状態だったため、ローマ兵の指揮官達は「反乱軍を宮殿からただちに退去させる以外の合意は望まない。」と答えた。
その後、若く血の気の多いデュポーは、剣を抜いて階段を駆け下り、共和派に加わってローマ兵達を中庭から追い出すよう煽り立てた。
デュポーが支柱となって共和派が密集している強固な地点にローマ竜騎兵が攻撃を仕掛けた。
数人は激怒して死亡し、デュポーは致命傷を負い、その直後に死亡した。
この日、デュポー将軍はデジレ・クラリーと結婚する日だったが、28歳の若さで死亡した。
デジレは2度婚約をしたが2度とも結婚には至らなかった。
※デジレの最初の婚約は個人的なものでありナポレオンと交わされた。2度目の婚約は今回死亡したデュポー将軍であり、ナポレオンの紹介がきっかけだった。その後デジレはナポレオンと反りが合わずフランスを裏切ったベルナドット将軍と結婚している。そのため運命論的にナポレオンと相反する星の下にいるとも解釈できる。
その後、共和主義者のほとんどは武器の音を聞き、流された血を見て宮殿の庭を通って逃亡し命を取り留めたが、最も大胆な者達は残された。
コルシーニ宮殿の中庭は負傷者や死亡者がおり、騒ぎで荒れ果てた悲惨な状態となったと言われている。
騒ぎの後
駐フランス大使公邸であるコルシーニ宮殿での騒動はフランスにもローマにも非があった。
フランスは過激な群衆を解散させて迅速に騒動を収束させるべきだったし、ローマは法を犯して駐フランス大使公邸に踏み込むべきでなかった。
もしフランスとローマの力関係が対等なものであれば、大きな問題になることは無かっただろう。
しかしローマは2度フランスに敗北を喫しており、ローマの力は大きく衰えていた。
そして頼みの綱だった大国オーストリアも隣国ナポリもフランスと休戦しており、ローマ一国ではフランスに対抗するには力不足だった。
デュポーの死は大きな損失だったがフランス政府及びボナパルトの目論見通りローマとの対立によってフランス人が死亡し、ローマに宣戦布告する準備が整った。
参考文献References
・Carlo Botta著「Storia d'Italia (1534-1814):1789-1814, 第3巻」
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