ドイツ方面軍の分割とイングランド遠征の実情 
The reality of the invasion of England (1797)

オージュロー率いるドイツ方面軍の分割

 ライン・モーゼル方面軍とサンブレ・エ・ムーズ軍が合併したドイツ方面軍総司令官オージュロー将軍は約110,000人の巨大な軍を指揮する立場となり、野心が芽生え始めていた。

「なぜボナパルトにこのように最高司令官を指揮する権利が与えられたのでしょうか?」との書簡がバラスに送られて来るほどだった。

 バラスはこのオージュローの態度の変化を「大軍の最高司令官という言葉が彼の想像力を刺激したのだろう。」と考えた。

 そのためドイツ方面軍を再び分割することを決定し、12月9日、マインツ軍(Armée de Mayence)とライン軍(Armée du Rhin)に分かれ、マインツ軍はハトリー(Jacques Maurice Hatry)将軍が指揮し、ライン軍はオージュロー将軍が指揮することとなった。

 それ以降、従順でなかったオージュローは穏やかになったそうである。

オージュロー将軍の去就

 オージュローはイタリア方面軍にいた時はボナパルトに従順だったが、パリに帰還した際、社交界などでガルダ湖畔の戦いなどの功績を吹聴して自慢し、撤退を考えていたボナパルトに自分が勇気を与えてオーストリア軍に立ち向かい勝利したと言っていた。

 確かにガルダ湖畔の戦いでの勝利はオージュローの力と戦略によるところが大きいが、その後のバッサーノ、アルコレ、リヴォリ、そしてレオーベンまでの戦役での勝利はすべてボナパルトの戦略に基づいて勝利を収めている。

 そして、ドイツ方面軍という大軍の指揮権を与えられた後、イタリアでの元上司(ナポレオン)の功績は無かったもののようにバラスに抗議している。

 これらのことから、オージュローという人物は自分の功績を事実以上に輝かせようとする一方、他人の功績を忘却し、力を与えられると気が大きくなる自分本位な人物なのだろうと考えられる。

 オージュローが自分の功績を吹聴して回ったのは、それが自分に新たな地位(戦争大臣などの地位)を与えてくれると考えたからだろう。

※フリュクティドール18日のクーデターの後、「カルノーは俺が血まみれにして殺した。(実際は逃亡している。)」と吹聴する将軍も存在しており、それに比べればオージュローの自慢はおとなしいものだったのかもしれない。

 バラスはボナパルトの功績もオージュローの功績も分かっていたためオージュローの言うことを聞くことは無かった。

 オージュローに対するバラス評価は「オージュローは優れた師団将軍であり、【与えられた範囲内】で命令を遂行し行動する能力が非常に高い。」であり、ボナパルトの評価は「馬鹿だが、戦いにおいては勇敢で優れた将軍。」と両者とも似た見解を持っている。

 余談だが、オージュローがフランス政府にボナパルトに対する抗議を行なったことに対抗して、ボナパルトもオージュローの主張を否定しオージュローへの不平を言う書簡を送っている。

 その後、フリュクティドール18日のクーデターで軍の指揮を執ったオージュローはフランス本国で絶大な人気と影響力を持ったナポレオンに対抗しようとしたことにより、ドイツ方面軍を分割した片方のライン方面軍指揮官となったばかりでなく、大使としてコンスタンティノープルに派遣されることが議論された。

 オージュローはフランスの英雄に敵対したがために表舞台から排除されようとしていた。

イングランド遠征の実情

 1797年12月、ボナパルトはパリに到着したが、イングランド遠征は事実上不可能な状況だった。

 イギリス海軍に対抗するためにはフランス艦隊とスペイン艦隊をブレストに向かわせる必要があるが、スペインのカディス港は封鎖されており、ジブラルタル海峡を越えることは不可能であると考えられた。

 しかも大西洋側の艦船は頻繁に来訪するイギリス海軍によって打ち減らされ、艦船を操舵する熟練した船員も不足していた。

 もしイングランド遠征を行う場合、艦船の建造、船員の教育、道路の整備などを行うための莫大な資金と時間が必要であると考えられた。

 フランスに亡命中のアイルランドの革命家であるウルフ・トーン(Theobald Wolfe Tone)は12月にボナパルトと知己を得る機会があり、イギリスからの独立を目指すアイルランドへの遠征を勧めたが、艦船や船員、資金不足によってすぐに実行できる状態ではなかったためボナパルトが興味を示すことはなかった。

イギリスの弱点

 12月20日、ジュールダン将軍からの書簡がバラスの元に届いた。

 その内容は「もし東インド諸島(東南アジアの島々)からイギリスを排除するために大規模な遠征を命じるなら最高指揮官を引き受ける。」というものだった。

 フリュクティドール18日のクーデターの後、バラスがベルナドットと話した際、ベルナドットはインド遠征を提案しており、ボナパルトはエジプト遠征を打診していた。

 どの将軍も様々な理由からイングランド遠征は不可能であると考え、まずはイギリスを弱らせるためにイギリスの植民地を占領するか植民地とイギリスのつながりを遮断することを考えたのだろう。

 イギリスの植民地への遠征の場合、遥か遠いインドや東南アジアへ大規模な軍を派遣する必要があり、エジプトへの遠征の場合、エジプトを実質的に支配しているマムルーク朝と戦端を開くことを意味しており、エジプトの支配権を巡ってマムルーク朝と対立しているオスマン帝国と敵対する可能性があった。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・その他