ナポレオンの対イングランド戦略と代替案の提示(1798年)
Napoleon's strategy against England and presentation of alternatives(1798)
スタール夫人の恐怖
※スタール夫人 (Madame de Stael) の肖像画(1810)。ジャン・バティスト・イザベイ(Jean Baptiste Isabey)画。
1798年1月、ボナパルトは政府が主催する式典やパーティに呼ばれて忙しくしていた。
式典やパーティなどにボナパルトが出席するとなるとその式典やパーティはたちまち人気となって人だかりができ、ボナパルトがいない式典やパーティは人気がなかった。
そのためフランス政府の各省庁は積極的にボナパルトに式典やパーティへの参加を求めた。
しかし作家であるスタール夫人から「将軍、あなたにとって初めての女性は誰ですか?」などの公衆の面前での破廉恥な質問に辟易し、徐々にパリに居づらくなっていったと言われている。
※1787年11月22日、18歳の時にパレ・ロワイヤルの売春婦との一夜でナポレオンは童貞を失っているが、それを言えるはずもなく、胡麻化して答えたそうである。
ボナパルトはこの間、式典やパーティに出ていただけでなく、第一次イタリア遠征に随行した数学者ガスパール・モンジュを伝手としてセレモニーなどに参加して知識人達とのコネクションの確立などを行ない、軍事ではイタリア方面軍への指示を行い、イングランド方面軍の編成などを協議していた。
ボナパルトの影響力が強まるにつれて総裁であるルーベルとバラスは警戒し、まるでボナパルトが同僚のようにバラスたちと同じテーブルに座ろうとすると、別の席を与えるなどして距離を取り、ボナパルトを従順にさせようと試みた。
しかしボナパルトは表面上従順な態度を示したが、バラスたちが要請したラシュタット会議への出席は専門家に任せたいと断っていた。
総裁達はボナパルト将軍がラシュタット会議に出席することにより有利に交渉を進め、もし交渉が決裂し戦争となった場合、即座にイングランド方面軍をライン方面に移動させて対応することを考えていたが、ボナパルトはラシュタットへ旅立とうとはしなかった。
それを見たバラスたちは、ボナパルトをパリから離そうとイングランド遠征を可能とするためにまず大西洋沿岸へ赴くよう促した。
ボナパルトはイングランド方面軍総司令官としてフランスの海軍力を強化しイングランド遠征を可能にすべき立場だった。
そのため総裁達の要請を無視してパリに居続けることは難しく、スタール夫人の存在もそれに拍車をかけた。
オージュロー将軍の左遷と軍におけるナポレオンの影響力の拡大
1798年1月下旬、ポルトガル方面軍を新設するためにオージュロー将軍がピレネー山脈へ派遣されることが決定された。
当時、フランスはイギリスが支援するポルトガルと敵対していたが、ポルトガルを囲んでいるスペインとは同盟国であったため、事実上の閑職に回されたこととなった。
オージュローは、なぜ自分にこのピレネー方面への派遣命令が下ったかについての理由を知っており、諦めて命令に従った。
1798年2月3日、オージュローはライン方面からパリを避けて、直接ピレネー山脈の地中海側の麓に位置するペルピニャン(Perpignan)に向かったが、実質的にイザード(Izard)将軍がポルトガル方面軍を指揮し、イザード将軍はイングランド方面軍に採用されていた。
そのため、ポルトガル方面軍もボナパルトの影響下に置かれることとなった。
パリからの逃亡とイングランド方面軍総司令官としての仕事
2月8日、ボナパルトは遂にパリを出発しイングランド遠征のための準備のためにダンケルクへ向かった。
そして大西洋沿岸は広く、手分けをして沿岸の現状把握と防衛強化を行うために、ドゼー将軍をブレストへ、クレベール将軍をル・アーブルへ向かわせた。
ボナパルトはこの時、コタンタン半島(ノルマンディ半島)の東に位置しイギリス軍が占領しているサン・マルクフ(Saint-Marcouf)諸島の占領を計画していた。
2月12日までにダンケルクに到着したボナパルトは、カッファレリ(Caffarelli)工兵将軍をブーローニュ(Boulogne)に派遣し、港を改善させ、砲艦50隻を収容できるようにするための措置を講じるよう命じた。
その後、カレー港にも赴かせて400隻の船舶を収容できるよう改善する計画だった。
さらに技術者のフォルフェ(Pierre-Alexandre-Laurent Forfait)にスラック川河口にあるアンブレウーズ(Ambleteuse)とカンシュ川河口にあるエタプル(Étaples)の2つの港にも赴かせ、何らかの措置を講じることができるかどうか検討させた。
※フォルフェは将来のナポレオン統領政府で海軍大臣となる人物である。
そしてフランス政府にテッセル(Texel)艦隊や部隊を乗せるための輸送船とは別にボート200~250艘、砲艦20隻~30隻を要求し、私掠船の建造を命じた。
大西洋側の貧弱な海軍力を強化し、私掠船によってイギリスの貿易を妨害することが目的だった。
ナポレオンによるイングランド遠征戦略と代替案の提示
※ナポレオン の肖像画(1798)。ルイ・ダヴィッド画(未完)。ルーヴル美術館蔵
2月23日、ボナパルトはフランス政府にイングランド遠征の現状と今後の見通し、そして数多くの要求の書簡を送った。
フランス艦船はイギリスのフリゲート艦などの襲来によって被害を受け、武装解除された艦船が陸に上げられ、ブレスト港などには砲艦が30隻あるが、その内10隻しか武装していなかった。
尚且つ、過去4ヶ月もの間新たな船の建造も行っておらず、船員が不足し、イギリス海峡やドーバー海峡の制海権を奪取するには未だ程遠い状態だった。
ボナパルトは新たに120隻の私掠船を建造中であり、さらにイングランド遠征のために多くの艦船を建造し、周辺の港から艦船やボートなどをブレスト、ル・アーブル、ブローニュ、カレー、ダンケルクの港に集結させ、これらの港の海軍力を強化しようとしていた。
陸軍を上陸させるに当たって、特に北海を睨むダンケルク港とイギリス海峡を睨むル・アーブル港、イギリス本土と最も近くドーバー海峡と接するカレー港の強化は重要だった。
イングランド遠征を成功させるためには、イギリス海軍と戦って勝利しイギリス海峡とドーバー海峡の制海権を維持し続け、フランス陸軍をケントやサセックスに上陸させ、アイルランドの反乱勢力と呼応し、陸戦で勝利してロンドンを占領するか有利な講和を結ぶかする必要がある。
イングランド遠征実現のためには多額の資金と多くの時間が必要であり、これらの捻出が可能であれば来年中にイングランド遠征が可能になると試算された。
しかし、もし資金と時間の捻出が不可能だった場合のことも考え、ボナパルトはイギリスの影響力の強いドイツ方面のハノーファーとハンブルクへ侵攻するか、レヴァント(Levant)への遠征を代替案として提案した。
※「レヴァント(フランス語の発音はルヴァン)」とはトルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地中海東部沿岸地域の総称。
そして、もしイングランド遠征のための資金と時間の捻出もハノーファーとハンブルクへの侵攻もレヴァントへの遠征も不可能な場合、イギリスと和平を結ぶ以外に道はなく、イギリスと和平を結ぶことができればフランスはラシュタット会議で神聖ローマ帝国により多くを要求できる立場となると付け加えた。
ナポレオンが勝利し続けてきた理由は、戦略や戦術の基本原則に忠実であるためだった。
そのためイングランド遠征計画も海軍力や沿岸部を強化し、制海権を奪取して維持し続け、多くの輸送船を使用して大軍を上陸させ、私掠船などでイギリス本島と外部との連絡を妨害しつつスムーズな兵站を背景に陸戦を行うという上陸作戦の基本に則ったものだった。
その後、ボナパルトはこれらの説明を行ない今後の方針を決めるためにパリへと旅立った。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)
・その他
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