イタリア方面軍砲兵司令官への任命

本記事はトゥーロン攻囲戦後からサオルジオの戦いが始まるまでの間のナポレオン・ボナパルトに関する事柄を紹介しています。

ナポレオンはこの期間中に少将として沿岸警備任務を行いつつトゥーロン攻囲戦で負った太腿の傷を癒し、その後、イタリア方面軍砲兵司令官に任命されました。

将軍になりたてのナポレオンの知られざるエピソードです。


母への仕送り

トゥーロン攻囲戦中にナポレオンは大尉から大佐まで昇進し、トゥーロン攻囲戦の戦功として少将にまで駆け上がりました。

この昇進速度はナポレオンの業績ももちろんですが、ナポレオンに助力した派遣議員達のおかげであり、士官や将官が足りなかったフランス革命軍の内部事情のおかげでもありました。

少将に昇進した後、母レティシアに60,000フランを送ったと言われています。

給料も上がり、トゥーロン攻囲戦での褒賞も貰ったのだと考えられます。



イタリア方面軍砲兵司令官への任命

ナポレオンはトゥーロン攻囲戦で受けた太腿の傷を癒やしながら南仏のマルセイユとコート・ダジュール(Côte d'Azur)周辺の沿岸警備を務め、ニースの西に流れるヴァール川(Le Var)からマルセイユの西に流れるローヌ川(Le Rhône)の海岸やイエール諸島の砲台を再配置し、重要地点に新たに砲台を設置しました。

ナポレオン曰く、南仏沿岸の砲台の設置は砲兵としての訓練を受けていないただの建築家が設置したものだったそうです。

3月、イタリア方面軍の砲兵司令官に任命されニースに移動しました。

そこで懇意にしている派遣議員オーギュスタン・ロベスピエールとサリセッティ等に再会しました。

ナポレオンは母レティシアと5人の兄妹(エリザ、ルイ、ポーリーン、カロリーヌ、ジェローム)をマルセイユからアンティーブのシャトー・サリー(Château Salé)に移り住むよう手配をしました。

シャトー・サリーは恐らくフランス政府の所有であり、ちょうど空き家だったためナポレオンは将軍が受ける福利厚生の一環としてシャトー・サリーの使用を申請し認められたのだと考えられます。

◎19世紀後半頃のシャトー・サリー(Château Salé)

※写真に写っている人物は当時の所有者であるレイユ(André-Charles-Victor Reille)将軍とその家族。レイユ将軍はマッセナ元帥の孫にあたります。マッセナ元帥の次女ヴィクトワール・テクル(Victoire Thècle)がレイユ将軍の母親であり、父親は一時期マッセナ将軍の副官でした。

ナポレオンのいるニースからアンティーブまでは20㎞ほどであり、ナポレオンは家族が近くにいることを望んでいました。

そして1794年4月、ナポレオン24歳の春、「サオルジオの戦い」が始まります。