トゥーロン攻囲戦 05 デュゴミエ将軍の着任と総攻撃の準備 - Siege of Toulon 05

トゥーロン攻囲戦

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約32,000人 約1,700人
フランス王党派
グレートブリテン王国
スペイン王国
ナポリ王国
シチリア王国
サルディーニャ王国
約17,000人 約2,100人
 

デュゴミエ着任と砲台の建設Dugommier and batteries

 11月20日、デュゴミエ将軍は着任するとレヴェスカ(l'Evescat)の丘の頂上に「ジャコバン党員(Jacobins)」と名付けた砲台を建設した。11月28日、ジャコバン党員砲台のすぐ左隣に「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」砲台、12月14日、ジャコバン党員砲台と恐れを知らぬ男たち砲台の間に「悪党狩り(Chasse Coquins)」砲台を建設した。

 これらはマルグレイブ要塞を囲むように建設され、ルキエの丘に「大いなる港(Grande Rade)」、その北に「4つの風車」(Quatre Moulins)」と呼ばれる2つの砲台によって支援されていた。

 「ジャコバン党員(Jacobins)」、「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」、「悪党狩り(Chasse Coquins)」の3砲台の位置についてであるが、「ジャコバン党員(Jacobins)」はレヴェスカの丘の頂上とあるので、レヴェスカの丘にを配置した。

 「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」はRue Jean-Jacques Rousseauの入り口にHommes Sans Peurの石碑のようなものがあるのでこの地点にを配置した。

 「悪党狩り(Chasse Coquins)」は「ジャコバン党員(Jacobins)」と「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」の間ということなので、この2砲台がマルグレイブ要塞との射線に入らないような間にある付近の高台にを配置。

 「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」砲台は当初最も人気が無い砲台だったということなので、マルグレイブ要塞に最も近く、「ジャコバン党員(Jacobins)」砲台よりも標高が低いのでこの地点である可能性が最も高いと思われる。「ジャコバン党員(Jacobins)」砲台のすぐ左隣という話は、北が上という地図上での左隣ではなく、マルグレイブ要塞方面を正面としてすぐ左隣にある丘に位置していたという意味であると考えられる。

 実はこの3砲台の位置についてもう一つの可能性を考えているが、その場合、当初最も人気のない砲台は「ジャコバン党員(Jacobins)」となるだろうと予想する。

 ボナパルト少佐は恐れを知らぬ男たち砲台の不評に頭を抱えていたが、やがて名案を思いつき、恐れを知らぬ男たち砲台の入り口の外に「恐れを知らぬ男たち(Hommes Sans Peur)」と書かれた高札を掲げ、この時から最も人気のある砲台となったと言われている。

 「大いなる港(Grande Rade)」砲台はルキエ(Rouquier)の丘にを配置、「4つの風車(Quatre Moulins)」砲台はChemin des Quatre Moulinsという通りがあるので、その付近の丘の上にを配置。

 モンターニュ砲台、サン・キュロット砲台の建設時においても考えたことであるが、砲台を建設する順番として、排除したい対象の目の前にいきなり建設するのではなく、まずは建設を支援するための砲台を作り、その後、排除したい対象を適切な射程距離内に捉えるように砲台を建設していくのではないだろうか。そのように考えると、マルグレイブ要塞直近の3砲台よりも、大いなる港、4つの風車の2砲台の建設が先だったということになる。

 11月20日にデュゴミエ将軍が着任してすぐにボナパルト少佐の作戦を採用したということだが、大いなる港、4つの風車の2砲台が先に建設されていたとすると、カルトー将軍が転属して以降、すでにトゥーロン攻囲西軍ではマルグレイブ要塞攻略で作戦が進んでいたのではないのだろうか。

 それならば軍人としての適性が無く、良識人であるドッペ将軍が着任してすぐにマルグレイブ要塞を攻撃したことが腑に落ちる。

総攻撃への準備Preparation

 フランス革命軍はマルグレイブ要塞の周囲に5つの砲台を建設した後、マルグレイブ要塞南の湾や外洋からの軍事的介入を防ぐために、2つの砲台を建設した。「サブレット(Sublettes)」砲台と「プレニャン(Pregnant)」砲台である。

 この2砲台の建設は、慎重に慎重を重ねた結果と思われる。総攻撃の時に、背後から攻撃を受けたら攻撃は失敗する。それを防ぐためである。

 フランス革命軍は、11月25日作戦会議を開き、ボナパルト少佐が構想していた作戦を実行することが決まった。この作戦会議でボナパルト少佐は書記官の任務についていた。

 11月30日、突如マルブスケ要塞からイギリス・ナポリ王国の部隊が、マルブスケ要塞正面に位置する国民公会の砲台に対し攻撃を仕掛けてきた。そして、国民公会の砲台にある24ポンド砲7門を損傷させ、国民公会の砲台を事実上破壊した。

 デュゴミエは自ら反撃を指揮。人員を再集結させ国民公会の砲台を取り返し、復旧させた。その反撃部隊の中にボナパルト少佐がいた。デュゴミエが公安委員会に送った報告書の中には、この戦闘で活躍した人物としてボナパルト砲兵少佐の名前がある。

 ナポレオンがセント・ヘレナ島で語った内容は、ナポレオン自身がマルブスケ要塞から出撃してきた部隊の指揮官を捕らえたということである。
 この捕らえた指揮官だが、捕らえた当初は大佐だと思われていた。しかし、話を聞いてみるとイギリス部隊の指揮官兼トゥーロン軍管区の総督であるオハラ将軍であることが判明したとのことであった。

 同盟軍は指揮官が捕らえられ、イギリス・ナポリ王国の部隊は死傷者約400名、捕虜約200名を出して撃退された。

 この時のトゥーロンを防衛する同盟軍の状況を見ると、マルブスケ要塞からの出撃は不思議ではない。

 トゥーロンにオハラ少将が着任して以降増援が無く、現有戦力では広いトゥーロン要塞群を防衛しきれないのは明白だった。そのため、マルブスケ要塞周辺の砲台群を破壊することによりフランス革命軍よりの圧力を和らげ、現状を少しでも打破しようと考えたと思われる。

 11月30日の国民公会の砲台への攻撃によって総攻撃の日取りが遅れていた。フランス革命軍とトゥーロン要塞群を防衛する同盟軍の間で度重なる砲撃が続く中、国民公会砲台の復旧、総攻撃への準備に追われていた。

 同盟軍総司令官オハラ将軍を捕らえた事で、ボナパルトは大佐に昇進した。

 12月12日、フランス革命軍は再び作戦会議を開いた。サリセッティやバラス等派遣議員はデュゴミエにボナパルトの作戦を進めるように言った。ボナパルト少佐の作戦が実行される日が決定した。12月17日である。

 12月14日、アンドレ・マッセナ少将率いる旅団がイタリア方面軍から到着した。

 すべての準備は整い、ついに作戦が決行される日が来た。

 結局この時までに、同盟軍が期待していたオーストリア兵5,000人と本国の増援は来なかった。最後の増援は12月5日、ナポリ王国からだった。このナポリ王国の増援は未熟であり、少しの価値しか持たなかった。