トゥーロン攻囲戦 04 リヨン包囲戦の終了と第二次ケールの丘攻防戦 - Siege of Toulon 04
トゥーロン攻囲戦
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約32,000人 | 約1,700人 |
フランス王党派 グレートブリテン王国 スペイン王国 ナポリ王国 シチリア王国 サルディーニャ王国 |
約17,000人 | 約2,100人 |
カルトーの転属とドッペの着任Toulon and its Fortifications
10月15日、ラポワプがブラン岬要塞を攻撃した日、ボナパルト大尉はマルブスケ要塞を落とすために砲台の建設を要請された。周辺地域から砲兵を集合させ、各々6門の大砲を持つ50個隊を揃えた。
この時点でのフランス革命軍にとっての朗報は、10月9日にリヨン包囲戦が終結し、トゥーロン包囲軍に大規模な増援及び装備・物資を送ることが可能になったことだろう。
10月18日、ボナパルト大尉は少佐に昇進したという連絡があったがこれといった感動もなく、着々とマルブスケ要塞攻略のために砲台を建設していた。
10月19日までにアレーネ(Arenes)の丘、デュモンソー(Dumonceau)の丘、ゴー(Gaux)の丘、ラグブラン(Lagoubran)の丘にそれぞれ、マルブスケ要塞を取り囲むように「国民公会(Convention)」、「共和派の陣地(Camp des Républicain)」、「ファリニエール(Farinière)」、「火薬庫(Poudrière)」と名付けた砲台群を建設した。
これらの砲台群は、マルブスケ要塞よりの砲撃から物資や人員の移動を守るために塹壕(通路)で有機的に結合されていた。
ボナパルト少佐はマルグレイブ要塞を建設することによって弱点を克服したトゥーロン要塞群の攻略において、問題を一つ一つ解決していかなければならなかった。
①大砲・砲弾・マスケット銃・弾薬・馬・食料等の物資の不足
②砲兵の不足
③軍をまとめあげることができ、しっかりとした戦略眼を持ち、戦略理論を理解させることができ、実践できる熟練した総司令官の不在
である。
①については様々な手段で周辺都市から徴発し、書簡を送り、嫌がる農民を脅しつけ物資をかき集め続けた。11月30日までには24ポンド砲と臼砲がバランスよく含まれる約100門の大砲を集めることができた。
②については、派遣議員に掛け合い、近隣に住んでいた砲兵の退役将校を軍に再登録。彼らを教官として歩兵に大砲の扱い方を訓練させた。短期間で習熟させる必要があったため、厳しい集中訓練だった。
③については上官を変えてくれということなので、ボナパルト少佐の更迭の危険すらあったが、10月25日、公安委員会に緊急支援の訴えを送った。書簡には、優秀な総司令官が必要であるということと、レギエット岬を奪取しトゥーロンを窮地に追い込ませるというボナパルト少佐の作戦が書かれていた。
※この時、リヨン包囲戦に参加していた兵士たちや装備・物資が続々とトゥーロンに送られていたので、ナポレオンが一人ですべてを揃えたわけでは無い。
11月6日、ボナパルト少佐に幸運が訪れた。総司令官カルトーがイタリア方面軍の指揮を執るために転属となったのだ。
11月11日、リヨン包囲戦の勝者であるドッペ将軍がカルトーの後任に決まった。(カルトーが転属になってからドッペが着任するまでの間はラポワプ将軍が総司令官代理を務めた)11月13日、ドッペ将軍が総司令官として着任した。ドッペは医学博士号を持っており、詩や小説、医学書を出版するなど知識人であった。主にフランス革命思想の伝播に貢献し、リヨンの住民達への略奪や虐殺を防ぐためにあらゆる努力をした良識人でもあった。
11月16日、ドッペはボナパルト少佐の作戦を採用し、マルグレイブ要塞への攻撃をしかけた。ナポリ王国の部隊に大きな被害を与えたが、援軍としてきた総司令官オハラ率いるイギリス部隊が到着して撃退された。ドッペは自ら軍人としての適性がないと理解し辞任した。
この時点では、マルグレイブ要塞を攻略するためのフランス革命軍側の砲台群は建設されておらず、明らかに準備不足であった。もしかしたら、ボナパルト少佐自身、砲台の支援無くマルグレイブ要塞の攻略ができるものと考えていたのかもしれない。
ドッペが自ら辞任したときのエピソードとして、彼の側近が目の前で倒れたのを見て、恐怖に襲われパニックをおこし、マルグレイブ要塞への攻撃を突如中断して撤退。このことで自分の軍人としての適性がないと考えた、というものがある。
しかし、ドッペはトゥーロン攻囲軍総司令官を辞任した後も軍務に就き、それなりに成功している。目の前でショッキングな出来事があり、それがきっかけで軍人としての適性がないと考えたなら別の道を行くのではないのだろうか。
トゥーロン防衛の状況Toulon Defense Force
10月21日、同盟軍の補給は滞っていた。ラポワプによって攻撃されたファロン山の兵士たちの手当てはまだ不足しており、マルブスケ要塞の兵士たちは2日間補給を受けることができないでいた。パンや肉は腐敗し、ウジが沸いていた。
そしてもっと深刻だったのはマラリア熱の蔓延だった。同盟軍16,912人の内、任務が遂行できる兵士は約12,000ほどしかいなかった。(マラリア熱はフランス革命軍にも蔓延していた)
同盟軍の大きな防衛拠点はトゥーロン市街を含め17か所である。約12,000の兵士で防衛するには、トゥーロン要塞群は広すぎた。
10月28日、オハラ少将が歩兵927名、砲兵50名とともにトゥーロンに到着し、マルグレイブと交代した。トゥーロンにおいてのマルグレイブの任務は一時的なものに過ぎなかったのである。
9月下旬に取り付けたオーストリア兵5,000人の増援をオハラは待っていた。そして、本国に送った増援要請にも期待していた。
フランス革命軍が着々と増え続け、砲台を建設していく中で、同盟軍は徐々に疲弊していった。
公安委員会の作戦案Public Safety Commission strategy proposal
11月16日、ドッペと交代でデュゴミエが総司令官として指名された。
デュゴミエへの交代は無条件では喜ぶことができなかった。というのは、公安委員会から、公安委員会の推奨するトゥーロン要塞群攻略作戦がほぼ同時に送られてきたからである。
公安委員会の推奨する作戦は、ファロン山を占領し、各要塞に対する対壕を広げ、野戦築城をし、多くの砲台を据え付け、トゥーロン要塞を取り巻く要塞群を攻略していき、攻囲ラインを狭め、マルブスケ要塞及びトゥーロン要塞を包囲し、マルブスケ要塞を攻略 → トゥーロン要塞陥落というものであった。この作戦案には公安委員会側の作戦立案者ダルコンによると15万人の人員が必要であった。
公安委員会の推奨する作戦は現実との乖離がひどかった。その作戦は人員、装備、物資ともに潤沢であるという前提の上に成り立っていたからである。しかし、現実は人員、装備、物資ともに全く足りておらず、公安委員会の推奨する作戦は実行不可能であった。
デュゴミエ将軍もボナパルト少佐も公安委員会の作戦案はほぼ無視するかたちとなった。
補 足
共和派の陣地砲台であるが、これはデュモンソーの丘の上に建設されたとのことであった。デュモンソーの丘は☆を配置した位置にあるが、調べた中で同盟軍側の資料には出てこない。同盟軍側の資料で出てくるのは、火薬庫、ファリニエーレ、国民公会の3砲台である。特に火薬庫はマルブスケ要塞を守る兵士たちもかなり脅威に思っていたらしい。
火薬庫については、モンターニュ砲台から見下ろせる場所にあるラグブラン地区の丘に☆を配置した。ガレーヌの丘からもブレガイヨンの丘からも見下ろせる位置である。
そして国民公会の砲台だが、これはマルブスケ要塞正面のアレーネの丘に建設したということなので、実際にマルブスケ要塞正面にあるアレーネの丘に☆を配置した。
実はわからないのはファリニエーレである。ゴー(Gaux)の丘が見当たらないのだ。そのためファニリエーレはそれだろうと思われる付近の丘に☆を配置した。
恐らく共和派の陣地砲台は直接マルブスケ要塞を攻撃することを主な目的とした砲台ではなく、火薬庫、ファリニエーレ、国民公会の3砲台の建設を支援するための砲台だったのではないだろうか。