トゥーロン攻囲戦 01 叛旗時の状況と攻囲戦の始まり- Siege of Toulon 01


トゥーロン攻囲戦

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約32,000人 約1,700人
フランス王党派
グレートブリテン王国
スペイン王国
ナポリ王国
シチリア王国
サルディーニャ王国
約17,000人 約2,100人
 

トゥーロン叛旗Toulon Rebellion

 1793年1月21日、フランス国王ルイ16世の処刑を契機として、イギリスが中心となりオーストリア、プロイセン王国、スペイン、ナポリ王国、サルディーニャ王国、南ネーデルラントが第一次対仏大同盟を結成した。

 フランス国内では4月29日にマルセイユが、5月29日にリヨンが反乱を起こした。アヴィニョン、ニームも反乱勢力に飲み込まれた。アヴィニョン、マルセイユの反乱勢力に対処するため、フランス政府はアルプス方面軍所属のカルトー師団を派遣した。

カルトーは7月25日にアヴィニョンを占領し、8月25日にマルセイユの反乱を鎮圧した。

 反乱を起こした各市の反政府勢力への報復の事が広まると、トゥーロンの王党派勢力は大人しくしていても報復されると考え、1973年8月27日深夜~8月28日未明、フランス政府に反旗を翻しイギリス、スペイン、ナポリ王国、ピエモンテ各軍をトゥーロン港に迎え入れた。

トゥーロン攻囲までの状況Background to the battle

 フランス政府は各市で反乱を鎮圧したカルトー師団の兵力を12,000に増員、さらにイタリア方面軍からラポワプ将軍麾下の5,000の兵をトゥーロンへ派遣した。

 トゥーロンが叛旗を翻した当初、トゥーロン内の同盟軍は4,000人ほどであったが時間の経過とともに8,000人に増員され、最終的に17,000人ほどとなった。

 9月に入り、ラポワプ師団は内陸を通りトゥーロン東の入り口に到着。ラ・ヴァレット村に師団本部を置いた。カルトー師団はル・ボッセ(Le Beausset)に師団本部を置き、トゥーロン守備隊の前衛を撃退しながら西側から向かっていた。ニースではデュメルビオン将軍が約3000名の兵士をイタリア方面軍より分離し、ラポワプ将軍の指揮下に入った。

 9月7日、オリウール村に達したカルトー師団とトゥーロン守備隊の前衛との間で小競り合いがあり、攻城戦で重要な役割を果たす砲兵隊長であるドマルタン大尉が重傷を負って戦線を離脱した。

 その後、カルトーはオリウール村に前衛を置き、オリウール峠に大砲を設置するなど攻囲戦の準備を始めた。



トゥーロン要塞群初期図Toulon and its Fortifications (initial stage)

赤い  がトゥーロンを防衛する要塞群のおおよその位置。
トゥーロンの都市自体も難攻不落の星形要塞である。

トゥーロン西側要塞群(West トゥーロン東側要塞群(East
サン・アントワーヌ要塞(Fort St.Antoine) ファロン十字要塞(Fort de la Croix Faron
ルージュ砦(Fort Rouge ファロン要塞(Fort Faron
ブラン砦(Fort Blanc ラルティック要塞(Fort D'artigues
マルブスケ要塞(Fort Malbousquet サン・カトリーヌ要塞(Fort Sainte-Catherine
レギエット砦(Fort de l'Eguillette ラマルグ要塞(Fort Lamalgue
バラキエ砦(Fort Balaguier サン・ルイス砦(Fort Saint-Louis
サン・テルム要塞(Fort Saint-Elme ロワイヤル塔(La Tour Royale
ブラン岬要塞(Fort Cap Brun



攻囲戦のはじまりThe beginning of the battle

 カルトー師団とラポワプ師団はそれぞれ独立して行動していた。ファロン山で分断され、相互の連絡は困難を極めた。

 9月15日、戦線離脱した砲兵隊長ドマルタン大尉の後任としてナポレオン・ボナパルト大尉がカルトーの元に到着した。

 ボナパルト大尉がル・ボッセの師団本部に到着した時、カルトー師団はオリウールでトゥーロン守備隊の前衛と小競り合いを続けていた。

 翌日、ボナパルト大尉はカルトーとともに砲台の元に行き、オリウール峠から1㎞ほどのところに合計6門の大砲が設置されているのを見た。

 オリウール村からトゥーロン港まで直線距離で約7㎞ほどあるのだが、射程距離範囲内だと考えたのである。

 しかし、イギリス艦艇に向けて3発、海岸に向けて2発の砲撃を行った直後、総司令官カルトーは自分の認識が間違っていることを理解した。

 ボナパルト大尉がこれを見て驚いたというエピソードが残されている。

 さらに問題だったのは装備、物資の不足である。

 トゥーロンの防衛は星形要塞群によって形成されている。

 要塞戦には野戦築城及び大砲は必須であるが、カルトー師団が所持する装備は、24ポンド砲2門、臼砲3門、小型の野砲が数門であり、弾薬や砲兵自体も全く足りていなかった。

 カルトー自身も砲弾が無かったら炊事用具を砲弾の代わりに使用するように命令するほどであった。

 当時は鉄屑などをまとめたものをブドウ弾の代わりに使用していたため、勘違いをしたのだと考えられるが、これらのことでカルトーが攻囲戦に全く精通していなかったということが分かる。

 ボナパルト大尉は着任して状況を把握すると、師団を前進させて大砲の射程圏ギリギリまで師団を推し進めるよう進言し、それを実行した。

 そして偵察をし地図を見、トゥーロン攻略のための糸口を探った。

 フランス革命軍は、西はカルトー師団、東はラポワプ師団が陸地部分を包囲しており、完全包囲をするためには陸地部分同様に海からも出入りできないようにしなければならない。

 陸からだけでなく海からもトゥーロンを孤立させればトゥーロンは陥落すると考えたボナパルト大尉は作戦を立案した。

 トゥーロンの防衛機能は西側よりも東側の方が強固に作られている。その証拠に、東側には海の防衛のためにロワイヤル塔、サン・ルイス砦があり、その2つの防衛施設を守護するラマルグ要塞があるが、西側にはレギエット砦、バラキエ砦を守護する要塞がない。

 ボナパルト大尉はそれに目を付けた。

 ボナパルトはカルトーに作戦を提案し、実行させるために熱弁を振るった。カルトーとラポワプ両将軍はボナパルトとは全く別の作戦を考えており、乗り気ではなかった。

 しかし、ボナパルトは派遣議員から全面的な支持を得ており、派遣議員は司令官に対してさえ生殺与奪の権限を持っていたため、カルトーはボナパルトの作戦を渋々認めた。



ラポワプの作戦(予想)La Poype's strategy

 ラポワプはトゥーロンの東側からファロン山の占領をすべきであるとの方針だった。

 確かにファロン山を占領できればその後、陸地の攻略はしやすくなるが、ファロン山の東には2つの要塞があり(Fort de la Croix Faron, Fort Faron)お互い連携し合っており難攻不落の様相を呈していた。

 尚且つ、海からトゥーロンに物資が運び込まれているため、海の連絡線を断つことができなければ力でしかトゥーロンを陥落させるしか方法は無い。ラポワプは要塞群を占領していくことにより、トゥーロンを力攻めするつもりだったのだろうと思われる。

第一段階・・・トゥーロン西のカルトー師団がマルブスケ要塞とファロン山西の要塞群に攻撃

第二段階・・・トゥーロン東のラポワプ師団がファロン山東の要塞に攻撃、占領

第三段階・・・ラポワプ師団がラルティック要塞を攻撃、占領

第四段階・・・カルトー師団とともにマルブスケ要塞を攻撃、占領

第五段階・・・トゥーロン要塞攻略

 この予想は、12月17日のトゥーロン総攻撃の時のラポワプ師団の動き、公安委員会の推奨する作戦案によって成り立っている。ラポワプ師団はファロン山東の要塞群を攻略、12月14日に到着したマッセナ師団はラルティック要塞を攻略し、その後、ラポワプ師団はマルブスケ要塞を落としている。

 もし、トゥーロン要塞群を力攻めで陥落させるとした場合、後にデュゴミエ将軍着任と同時に届いた公安委員会の作戦の通り、ファロン山を占領 → トゥーロン要塞とファロン山の間にある要塞を攻略 → 攻囲ラインを最大限に伸ばし(長大な塹壕、多くの堡塁の建設、堡塁への砲台の設置)、マルブスケ要塞及びトゥーロン要塞の陸地部分を攻囲 → 攻囲ラインを狭め、マルブスケ要塞を占領 → トゥーロン要塞占領。という方法が普通に考えられる流れなのではないだろうか。

 この公安委員会の作戦には根本的な問題があった。それは必要人員、物資が現状に見合っていないことだった。公安委員会の推奨するところによるとこの作戦に15万人必要であった。現状のフランス革命軍にはこのような大規模な兵力は無く、堡塁に設置する大砲も全く足りず、15万人を養うだけの装備、物資も無かった。

 それでは少ない兵力で陸地側からトゥーロン要塞を陥落させるためにはどうするかであるが、マルブスケ要塞攻略が力攻めでのトゥーロン要塞攻略につながると考えたからである。