トゥーロン攻囲戦 06 総攻撃の始まりからトゥーロン要塞の占領 - Siege of Toulon 06


トゥーロン攻囲戦

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約32,000人 約1,700人
フランス王党派
グレートブリテン王国
スペイン王国
ナポリ王国
シチリア王国
サルディーニャ王国
約17,000人 約2,100人
 

総攻撃All-out attack

 1793年12月16日深夜~17日未明、酷いみぞれの降る嵐の中、作戦が始まった。
 デュゴミエはマルグレイブ要塞への攻撃命令を下した。マルグレイブ要塞周辺のフランス革命軍の砲台群が一斉に火を噴いた。激しい砲撃に支援されて、6,000名の部隊がマルグレイブ要塞を攻撃した。続いてトゥーロン東では、ラポワプ師団がファロン山東の要塞を、マッセナ旅団がラルティック要塞とサン・カトリーヌ要塞への攻撃を開始した。

 フランス革命軍の総力を上げた攻撃であった。

 この総攻撃はトゥーロン要塞群を防衛する同盟軍の処理能力を超えていたが同盟軍は奮闘した。

 12月18日、激しい戦闘の末、フランス革命軍はマルグレイブ要塞を占領した。フランス革命軍側の死傷者は約1,000名に上った。

 トゥーロン東のラポワプ師団側では、マッセナ少将率いる旅団がラルティック要塞を占領、ラポワプはファロン山東の要塞を占領していた。

 ボナパルト大佐はマルグレイブ要塞での戦闘で乗馬を斃されイギリス部隊の軍曹に銃剣で太腿を刺されて負傷。

 マルグレイブ要塞占領後の次の目標は、半島の先端に位置しているレギエット砦とその南に位置するバラキエ砦である。ボナパルト大佐は太腿の負傷が酷く動けなかったため、副官のオーギュスト・マルモンに後を託した。マルモンはマルグレイブ要塞から数時間もかからないうちにレギエット砦、バラキエ砦に向けて大砲を据え付けた。

 12月18日午後遅く、マルモンがレギエット砦、バラキエ砦を占領。レギエット砦に10門の砲台を設置し、トゥーロン港内の同盟艦船をを一掃する準備が整った。

 トゥーロンの完全包囲が完成し、勝敗が決した瞬間だった。この時、ラポワプ師団はマルブスケ要塞を占領しており、トゥーロンは要塞群の支援を失い、完全に孤立していた。

 レギエット砦からの砲撃が始まるとフッド提督は撤退を決断した。



ウィリアム・シドニー・スミス  William Sidney Smith

 ウィリアム・シドニー・スミスはフランス革命が勃発した当初トルコ第2の港湾都市スルミナにいた。1793年2月1日、フランスがイギリスとオランダに宣戦布告すると、自費で沈没船を修復し、約40人のイギリス船員を集めた。そしてトゥーロンで艦隊を指揮しているフッド提督と合流するために出航した。スミスはその年の12月初旬にトゥーロンに到着した。

 スミスが見たのは、フランス革命軍の砲台群とトゥーロン要塞群が激しく交戦しているところだった。

 フランス革命軍の総攻撃が始まり、トゥーロンは陥落寸前だった。

 スミスはトゥーロンがフランス革命軍に占領される前に、トゥーロン港の海軍武器廠近くに停泊しているフランス艦船と武器廠破壊の任務を受けた。スミスの任務遂行のためにスペイン兵が与えられた。

 トゥーロン港は敗走する兵士、避難のために乗船を求める住民でごった返していた。

 スミスは任務遂行に尽力したが、スペイン兵が命令を聞かず、フランス艦船の半数しか破壊できなかった。

 トゥーロンは陥落寸前の混乱の中にあり、ナポリ王国軍などは19日早朝には無秩序に撤退した。もし、スミスがサルディーニャやナポリ王国軍の助けを適切に借りることができれば、完全に任務を遂行でき、フランスの今後の作戦行動をかなり阻害できたはずである。

 しかし、敗走の混乱はスミスを助けることはなかった。

 その混乱の中、潮時を見極めスミスも撤退した。

 その後、スミスは休暇中に自費でトゥーロンへ赴いて、フッド提督と協力しトゥーロンの武器廠とフランス艦船の半数を破壊したにも関わらず、本国に帰還後フランス艦船をすべて破壊できなかったことでネルソン提督とコリンウッド提督から激しく非難された。

 フッド提督はそれに対して、「我々は準備無しで任務を遂行することを余儀なくされたが、やれることはすべてやった」とスミスを庇った。スミスは北海の新造フリゲート「ダイヤモンド」の指揮官に任命された。

 後日、ナポレオンもこのスミスの働きについて、「この将校は彼の任務を遂行した。共和国は兵器廠に貴重な物資が残っていたことに感謝しなければならない」と述べている。

トゥーロン占領と破壊、攻囲戦の終結Toulon Occupation and Destruction

 フランス革命軍がトゥーロンに入ると、トゥーロン市街は静寂に包まれていた。

 「まるで墓地のように静かだった」と最初に市街に入ったラポワプ将軍の義弟であり派遣議員フレロンは感想を述べている。

 12月19日 AM9:00、トゥーロンはフランス革命軍によって正式に占領された。

 そしてバラスやフレロンによる報復が行われた。トゥーロンのシャン・ド・マルス広場で王党派約700~800人が銃剣により射殺されたと言われている。

 ボナパルト大佐は太腿の治療のため、この処刑には立ち合わなかった。

 12月22日、トゥーロン陥落の功績によりボナパルトは少将(旅団長)に昇進した。

 12月24日、トゥーロン市街は破壊、略奪された。