ナポレオン初の実戦と故郷との別れ

本記事ではフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトのフランス革命勃発から「ボーケールの晩餐」を発行して議員とのコネクションを築くまでを紹介しています。

ナポレオンはこの期間中に初の実戦を経験し、故郷を追われています。

ナポレオンの挫折と悲運、そして希望のエピソードです。


フランス革命の勃発とコルシカ島への帰郷

1789年7月14日、バスティーユ襲撃を契機としてフランス革命が勃発しました。

革命の波はオーソンヌにも押し寄せ民衆が税務署などを襲い暴動が発生。ナポレオン所属の砲兵連隊もこの暴動の鎮圧にあたりました。

ナポレオンはこの時、革命に何の興味も示さず、軍務と教練、読書に明け暮れていました。

オーソンヌでの厳しい生活が革命に関心を寄せることを許さなかったのかもしれません。

1789年9月、20歳の時ナポレオンは規則で定められた休暇を「冬の海を航海しなければならないことの困難」を理由に1ヵ月早めてオーソンヌを出発し、リヨン、ヴァランス、マルセイユを経由してコルシカ島へ向かいました。

休暇のためにコルシカ島に帰郷したはずが、コルシカ島は革命の渦中にあり、王党派と革命派の間で争いが発生していました。

ナポレオンはコルシカ島で革命リーダーとして受け入れられ、新政府に恭順の意向を示しました。

1790年4月16日、健康上の理由により休暇の延長を要求し受け入れられます。

実際は健康でしたが、革命リーダーとしての責務のため偽って休暇の延長を申請したのでした。

6月、コルシカ島では争いが激しい紛争に変わり、25日、その波がアジャクシオにも押し寄せました。

そして「憲法に反対する発言や行動を行った者」、「貴族」や「僧侶」がアジャクシオ政府により逮捕されました。

これはアジャクシオの秩序を回復するためにナポレオンが主導して武力を背景に行ったものであり、アジャクシオ政府はナポレオンに秩序回復のためにとった行動を正当化する文書を書くよう依頼しました。

7月17日、ナポレオンと兄ジョセフはバスティアでコルシカ島の英雄パスカル・パオリ(Pascal Paoli)と会い、その帰還を歓迎しました。

しかしパオリはイギリスの支援を受けてコルシカ島の独立を考えていたため、コルシカ島での革命を主導したナポレオンのことを忌々しく思っており、露骨に無視したと言われています。

この頃からナポレオンはフランス革命に興味を持ち始めました。

1791年1月31日、ナポレオンは約10日かけてオーソンヌに帰りました。

その途中、ヴァランスで数日滞在したと言われています。

3月、ナポレオンはコルシカ国民義勇兵中佐に選出されました。

その後、特に目立った成果を上げることもなく1791年6月1日に中尉に昇進してヴァランスにある第4砲兵連隊に転属となり、6月16日に弟のルイとともにヴァランスに到着し、ボウ女史のアパートの一室を借りました。

ナポレオンはこの時期に将来のヴァランス市長、そして皇帝ナポレオンの内務大臣となるジャン=ピエール・バシャッソン(Jean-Pierre Bachasson)と出会い親交を結びます。

8月12日、ナポレオンはデュ・テイユ将軍の副官となり、8月26日~29日の間リヨン北方の町アンスにあるフォンテーヌ城(Château de la Fontaine)にデュ・テイユ将軍とともに滞在しました。

この時期はフランス革命の真っ只中であり、担当地域の警備強化に努めていたのだろうと考えられます。

9月30日、ナポレオンは新たな休暇の許可を得てコルシカ島に帰郷しました。

1792年1月、フランス軍はナポレオンを不在士官リストに加えましたが、そのことを知らないナポレオンは義勇兵活動に力を入れました。

4月にアジャクシオ義勇兵中佐に選出されてコルシカ島で熱心に義勇兵活動を行い、軍籍を抹消されるという出来事がありつつも5月28日にパリに向かい、コルシカ島でのナポレオンの役割の正当性をパリ当局に訴え軍に復帰しました。

おそらく、フランス革命により貴族で占められていた士官の多くが国外に逃亡するか監獄に入れられたことにより軍の名簿にはあるがいない者が多くなったため、不在士官リストに加えられた士官の中で連絡がつかなかった者は亡命したと思われて軍籍を抹消されたのだと考えられます。

この時期にナポレオンは初恋の人であるカロリーヌ・デュ・コロンビエ(Caroline du Colombier)と再会しましたが、離れ離れとなった6年の月日は長すぎました。

31歳となったカロリーヌは新婚ほやほやであり、もう恋人ではなく懐かしい友人となっていました。

1792年7月13日に大尉となり、8月10日にパリでの革命の嵐(テュイルリー宮殿の襲撃)を目撃しました。

休暇ばかりのナポレオンが大尉に昇進したのは、貴族の亡命による士官不足とフランス革命政府が4月にオーストリアに対して宣戦布告を行ったことが理由で士官が必要になったからだと考えられます。

1792年8月16日、パリの西に位置するサン=シール=レコール(Saint-Cyr-l'École)にある15歳の妹エリザの通っているサン=ルイ女子寄宿学校が廃校となり軍病院になることが決められました。

そのため丁度パリにいたナポレオンはエリザを迎えにサン=ルイ女子寄宿学校に赴き、9月1日にエリザは兄ナポレオンに連れられて寄宿学校を離れました。

エリザをコルシカ島の家族の元に送るためにマルセイユに立ち寄ったところ、羽根飾りの帽子をかぶっていた妹エリザが貴族と思われ殺されそうになりましたが、ナポレオンが素早く適切な対応を行ったため事なきを得たと言われています。

10月10日、ナポレオンはアジャクシオに戻りコルシカ島での任務(恐らく治安維持)を行うよう命じられました。

15日頃にアジャクシオに到着し、コルテ(Corte)の大隊に加わりました。

12月15日、フランス軍とアジャクシオ義勇軍はパオリを総司令官としてサルデーニャ遠征の準備を始め、ナポレオンも砲兵指揮官としてあらゆる手配を行いました。



ナポレオン初の実戦と故郷との別れ

1793年2月、フランス軍によるサルディーニャ遠征において、ナポレオンはコルシカ島とサルデーニャ島の間にある小さな島ラ・マッダレーナ(La Maddalena)への攻撃にパオリの甥セサリ指揮下のアジャクシオ義勇兵中佐として参加しました。

これがナポレオン23歳にして治安維持任務以外での初の実戦でした。

フランス軍は当初優勢に戦局を進めていました。

ナポレオンもラ・マッダレーナ島とサルデーニャ島の間に位置するサント・ステファノ島に上陸し、2月23日には2門の大砲と1門の臼砲を配置し、ラ・マッダーレナの町や沿岸の砲台への砲撃を行いました。

この時、サルディーニャ軍の沿岸の砲台を破壊することに成功しています。

しかしサルディーニャ軍の砲撃によって死傷者を出したコルベット艦ラ・フォーヴェット(La Fauvette)の水夫達が急に碇を上げて逃亡したことにより全軍撤退の命令が下り、攻撃は失敗に終わりました。

ラ・マッダーレナ島を攻撃する軍の一部はボランティアであり、軍事訓練を受けてもおらず、給料をもらっているわけでもありませんでした。

そのため使命感があるわけでもない水夫達は身の危険を感じるとすぐに逃亡したのだと考えられます。

また、ラ・マッダレーナ島の攻撃命令を好ましく思っていないパオリが、パオリの甥であるコロンナ・チェザーリが指揮していたラ・フォーヴェットの水夫達にわざと反乱を起こさせたとの見解もあります。

ナポレオンは沿岸の船まで2門の大砲と1門の臼砲を運びましたが船に乗せることができず、破壊放棄してコルシカ島に戻ることを余儀なくされました。

ラ・マッダーレナでの敗戦の後、ナポレオンは敗戦の状況を巡ってパオリと敵対することとなりました。

3月にナポレオン暗殺未遂事件が発生し、コルシカの英雄パオリとナポレオンの溝は修復できないものとなりました。

ナポレオンの弟リュシアンのパオリ弾劾演説の後の4月2日、フランス政府はイギリスとの取引を疑いパオリの役職を解き、逮捕状を出しました。

4月8日、パオリはフランス軍に対抗するために3,000人以上の男を集めました。そして同日、パオリを告発したのはリュシアンであることが知れ渡りました。

これを契機として日に日にボナパルト一家の周辺は不穏な空気に包まれ、5月5日、ナポレオンはパオリ派に捕らえられましたが何とか脱出し、10日にフランスの勢力圏にあるバスティアに到着しました。

5月17日にパオリがコルシカ島独立政府の首長に就任すると、その6日後の23日、ナポレオンの実家は裏切り者の家として略奪されました。

実家が略奪された日、ナポレオンはコルシカ島のフランス軍に参加しアジャクシオの鎮圧に向かいましたが失敗に終わりました。

恐らく、フランス軍がアジャクシオに向かっていることを聞きつけたパオリ派の民衆が親フランスであるボナパルト家を報復として略奪したのだろうと考えられます。

5月27日、パオリは対立しているボナパルト家に対しコルシカ島から追放命令を出しました。

5月31、ボナパルト一家はアジャクシオを離れて港町カルビ(Calvi)に向かい、6月2日にナポレオンがそれに加わりました。

6月、パオリはコルシカを離れたい者を止めることはないという声明を出し、コルシカ島を離れる者がコルシカ島北岸の港町に向かいました。

1793年6月10日、ボナパルト一家はコルシカ島のカルビから出航し、6月13日にトゥーロンに上陸しました。

コルシカの多くの民衆にとってパオリは英雄であり、ボナパルト家はフランスに靡いた裏切り者でしかありませんでした。



カルトー師団への配属と「ボーケールの晩餐」の執筆

ボナパルト一家はトゥーロンに上陸するとトゥーロン市庁舎でコルシカ移民として登録し、フランス政府から支援金を受け取りトゥーロンで生活を立て直そうとしました。

ナポレオンも家族の生活を支えるため軍務に就いて働きました。

配属先はアルプス方面軍カルトー将軍指揮下の部隊でした。

カルトー将軍はアヴィニョンとマルセイユの反乱鎮圧の任務を負っており、ナポレオンは7月にアヴィニョンの反乱鎮圧に参加し、その数日後、アヴィニョンの南西に位置するタラスコン(Tarascon)に派遣され、砲弾や弾薬を砲兵隊の元に運ぶ任務を行いました。

この任務中の1793年7月28日、ナポレオンはタラスコンに隣接するボーケール(Beaucaire)の見本市に立ち寄り、そこで出会った2人の商人とフランスの内戦について深夜まで語らい合いました。

ナポレオンはこの商人達との語り合いにインスピレーションを得て、翌日の7月29日にかの有名なプロパガンダ冊子「ボーケールの晩餐(Le Souper de Beaucaire)」を執筆したと言われています。

「ボーケールの晩餐」はコルシカの政治家であり家族の友人である派遣議員クリストフ・サリセッティの目に留まり、サリセッティの手によって冊子を発行して配布することができました。

執筆したのが7月29日でありトゥーロン攻略が始まったのが9月なので、8月中に印刷され配布されたのだと考えられます。

「ボーケールの晩餐」は反革命勢力に影響を及ぼすことはありませんでしたが、現代民主主義の先駆けであり恐怖政治を行ったマクシミリアン・ロベスピエールの弟である派遣議員オーギュスタン・ロベスピエールの知己を得るなど権力者とのコネクションを作ることに役立ちました。

ナポレオンがカフェ通いをして革命思想についての演説をしたのはカルトー将軍の元で働いていたこの頃です。

カフェ「イタリア」がナポレオンお気に入りのカフェであり、そこで派遣議員ポール・バラスとも出会っています。

パリ最古のカフェである「ル・プロコープ(Le Procope)」にもナポレオンは常連として通っており、持ち合わせが無かった際、被っていた帽子を代金代わりに置いて行ったというエピソードが残っていますが、この頃のナポレオンはマルセイユ近辺にいたため、通ったとすれば1795年のパリにいた時期なのではないかと考えられます。

※「ル・プロコープ」には様々な思想家や政治家が通っており、ヴォルテールはル・プロコープが気に入ってその2階に引っ越したと言われていますし、ベンジャミン・フランクリンがアメリカ独立宣言の草案を書いたのもル・プロコープだと言われています。
その他にもルソー、ショパン、ロベスピエール、マラー、ダントンなども通っていたそうです。

この時期に築き上げられた議員とのコネクションは、1793年9月から開始されるトゥーロン攻囲戦時のナポレオン・ボナパルト大尉の発言力を大いに高めました。

1793年8月、トゥーロン市は王党派による反乱で占領され、イギリス海軍を迎え入れました。

トゥーロン市にいたボナパルト一家はトゥーロンの北東に位置するブリニョール(Brignoles)に避難し、ナポレオンは伝手を頼りに9月末に母レティシアと5兄弟(エリザ、ルイ、ポーリーン、カロリーヌ、ジェローム)がマルセイユに住めるよう手配しました。

ナポレオンが用意した住まいは慎ましやかなアパートであり、母レティシアはお針子をしながら5兄弟を養い、ナポレオン達の仕送りとフランス政府からのコルシカ移民への支援金を頼りに生活したと言われています。