サオルジォの戦い 06 サオルジオの戦いの始まり、ブルスレの死 Battle of Saorgio 06
サオルジオの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約20,000人 | 約1,500人 |
サルディーニャ王国 オーストリア |
約8,000人 | 約2,800人 |
※この数字には、セルヴォニの部隊、ムーレット師団、アルジャントー旅団、オネリア守備隊は含まれていない。あくまでサオルジォ近郊で戦った部隊の数字である。
サオルジォの戦い(中盤 01)Battle of Saorgio
4月27日、マッセナの合図によりガルニエ中将率いるフランス革命軍左翼とマッカード少将率いるフランス革命軍中央がデレラ中将率いるピエモンテ軍右翼とコッリ中将率いるピエモンテ軍中央の一部への攻勢を強めた。これはピエモンテ軍を引き付けるための攻撃であったが、主攻さながらの戦果を挙げていた。ピエモンテ軍の拠点であるバーベットを占領し、20人の将校を含む250人の捕虜をサオルジォ攻略戦の本部がおかれているギアンドラに連行した。
午前5時~6時の間、マッセナはハンメル少将にマルタを攻撃させ、ブルスレ少将にサンソンの森を通りアルデンテ山の強力なピエモンテの拠点を攻撃するように命令した。
ハンメルはタナルド山の東からマルタへの進入路を警備をしていたピエモンテ軍の前哨を攻撃した。ピエモンテ軍前哨は強く抵抗をしたが、敵わないと見て退却した。その抵抗は短かかった。
撤退したピエモンテ前哨部隊はマルタの尾根の奥にある隠された拠点に向かった。この拠点は3つの砦によって護られており、約2,000人のピエモンテ・オーストリア兵によって防衛されていた。
ハンメルは3つの攻撃部隊を形成し砦を攻撃した。激しい銃撃戦、砦内部で銃剣での格闘戦の末、ピエモンテ守備隊の一部が逃亡した。これを契機としてピエモンテ守備隊は戦いつつ後退していった。そして、ハンメルは砦と拠点を占領した。
ハンメルはピエモンテの拠点を占領はしたが、マルタでのピエモンテ軍の抵抗は続いていた。
ブルスレはサンソンの森でピエモンテ軍の3個大隊と遭遇していた。2時間ほどの銃撃戦の後、ピエモンテ大隊は撤退していった。そしてブルスレはアルデンテ山にあるピエモンテの拠点攻略の準備に入った。
一方、フランソワ旅団では、ロッカ・バルボネ攻略に向かった部隊とロッカ・バルボネを防衛するピエモンテ部隊の交戦時、フランソワの部隊の逃亡兵が大隊指揮官を雪の割れ目に落として負傷させた。戦闘隊形が崩れたフランソワの部隊はピエモンテ部隊によってその大隊長が殺され14人の将校が負傷させられた。その大隊は瞬く間に敗走し、346人が死傷もしくは捕虜となった。
フランソワは即座に分遣隊を派遣し、なんとか戦線を維持した。
フランソワ旅団のタナレロ山攻略部隊は午前9時頃にチャッジャの尾根で布陣しているチョース少佐の部隊を攻撃した。5時間に及ぶ激しい戦闘の末、タナレロ山攻略を諦めフランソワ旅団の攻略部隊は後退した。
作戦図②・・・サオルジォの戦い(中盤 01)
フランソワは手元に1,500人の部隊を保持していたがモンテ・ペッレグリーノで監視を続けており、アルデンテ ~ サッカレロ を1,000人の兵で防衛するベルガルド少将に対して真剣に攻撃を加えなかった。マッセナは自分がどの側面の部隊にも支援されていないと感じていたため、アルデンテ山の砦の攻略をすることを決意した。
サオルジォの戦い(中盤 02)Battle of Saorgio
サンソンからアルデンテ山に向かう途中、非常に急な山の岩の上に建てられた約200人ほどの兵を収容できる砦があった。その砦は厳重に武装されていた。砲兵が移動できる道もあり、外部の味方への通信設備も十分に整った砦だった。
砲兵が移動できるのはピエモンテ側のみであり、攻略側からは容易に近づくことができなかった。
もしフランソワ旅団がサッカレロを占領し、アルデンテ山を攻撃したとしても容易に撃退されただろう。
ブルスレは1時頃に攻撃を試みたが最初の攻撃は失敗に終わった。ピエモンテ部隊の十字砲火にさらされるキルゾーンがあり、そこで最初の部隊は倒されたのである。
最初の部隊がなすすべもなく倒されたため、2番目の攻撃部隊はブルスレが直接率いて突撃した。ブルスレは塹壕の端まで勇敢に進み、塹壕に突入した。そして砦に突入するように懸命に戦ったが、ブルスレは砦に到達する手前の急な斜面の麓で射殺された。
ブルスレ少将の戦死により、ブルスレの部隊は浮足立ち後退した。
マッセナはピエモンテ軍の大砲の射程外まで後退した部隊を集結させ、軍を立て直した。
作戦図③・・・サオルジォの戦い(中盤 02)
ピエモンテ軍司令官コッリ中将はマルタの拠点を失ったことで、もしこのまま抵抗を続けていた場合、マルタからフランス部隊が雪崩込むことにより後背を突かれ、右翼の戦線を維持することは不可能であり、撤退すらも危うくなることを理解した。そのため、コッリは戦線を維持しながら後退するように各拠点、各部隊に命令を出していた。ピエモンテ軍もよく戦っていたため、コッリの命令に対して不満を持つ部隊もあった。
デレラ中将がカイロ渓谷を盾に防衛線を張り、右翼のプロベラ少将がカイロ渓谷からクラペイレット山へ防衛線を構築していた。中央ではヴィターレ少将がロイヤ川右岸の山々の頂上を占領した。