ヴェネツィア共和国の崩壊 01:イタリアの解放者 
Le Libérateur d'Italie

 1797年4月18日、レオーベンでフランス共和国とオーストリア帝国の和平が成立し、両軍の各部隊に伝達された。

 そのため急速にオーストリア軍とフランス軍との戦闘は停止していき、同時に和平の情報も拡散されていった。

 レオーベン条約を仲介したナポリ公使ガロ侯爵は、神聖ローマ皇帝に謁見し条約の批准を求めるためウィーンへ旅立った。

リーエンツの住民による抵抗

 ジュベール将軍とケルペン将軍の間で交わされた停戦協定によるとリーエンツはフランス軍に明け渡されることとなっていたが、リーエンツの住民はフランス軍に占領されることを良しとせず抵抗を続けていた。

 しかし1797年4月18日以降、ヴァロリー(Valory)将軍はリーエンツを防衛するカッツァン(Cazzan)州兵少佐と協定を結ぶことに成功した。

 レオーベンの仮条約が締結されたことを知らされたのだと考えられる。

 この武装勢力は4月23日にリーエンツを放棄し、州兵は解散することとなる。

 しかし州兵が解散した後もフランス軍はリーエンツを占領せず、市内を巡回するに留めた。

 一方、フェルトレとベッルーノは未だケルペン師団の分遣隊に占領されたままであり、和平締結後ではあるがフランス軍の人的資源の少なさを露呈させていた。

ライン方面での攻勢

 4月19日、オッシュ将軍率いるサンブレ・エ・ムーズ軍は進軍を開始した。

 モロー将軍率いるライン・モーゼル方面軍も同時に進軍を開始したかったが、資材不足によりライン川を渡ることができず、20日夜明けに進軍を開始することとなった。

 4月22日までにオッシュ将軍はアッセンハイム(Assenheim)まで、ルフェーブル将軍はフランクフルト(Frankfurt)まで、モロー将軍はレンヘン(Renchen)まで本部を進めており、そこでレオーベンの和平条約のことを知らされた。

 ライン方面の攻勢は開始から僅か4日で終わりを迎えることとなった。

イタリアの解放者

タルターナ船

※タルターナ船

 ゴーロ(Goro)港に停泊していたタルターナ船(Tartana)「レ・リベラトゥール・デ・イタリー(Le Libérateur d'Italie)号」の船長であるジャン・ロージェ(Laugier)は4月9日付けのボナパルトからの命令書を受け取った。

※「Le Libérateur d'Italie」は直訳すると「イタリアの解放者」である。

 ロージェはすぐさま他の2隻の小型船を伴って再び出航し、まずはカオルレ(Caorle)を目指した。

 ロージェはカオルレで漁船を拿捕し、「協力すれば多額の報酬を約束するが、拒否すれば殺す。」と脅迫し、何人かの漁師を乗船させ案内をするよう強要した。

 漁師たちは、「武装した外国船の海域への進入が 禁止されている」ことを伝えたが、聞き入れられなかった。

 4月20日、リベラトゥール号はリド(Lido)島の前に現れると、9発の大砲を発射した。

 この砲撃は、ある者によればヴェネツィア国旗に敬礼するための慣例に従った空砲であり、別のある者によれば攻撃だったと見解が分かれている。

 リド島の警備局は2隻の小型船を派遣し、リベラトゥール号に進路を変えて外海に戻るよう命じた。

 ヴェネツィアの士官がこの命令を船長に伝えたとき、ロージェは「禁止令を考慮するつもりはまったくない」と答え、前進を続けた。

 リベラトゥール号を威嚇するためにサンターンドレア要塞(Forte di Sant'Andrea)から2度の一斉射撃が行なわれ、これによりリベラトゥール号についてきていた2隻の小型船は追い払われた。

リド島及びサンターンドレア要塞の位置

※サンターンドレア要塞の位置

 リべラトゥール号は港を警備するヴェネツィアの船舶の前を横切ってリド港に侵入しようとし、ガレー船「アンネッタ・ベラ(Annetta Bella)号」に衝突した。

 ヴェネツィア船は砲撃を開始して反撃し、すぐにサンターンドレア要塞の強力な砲台が続いた。

 ロージェはこの砲撃で即死し、アンネッタ・ベラ号の船員達はリベラトゥール号に乗り込み、乗組員を捕らえて船を略奪した。

 この戦闘によりロージェ船長含むフランス船の乗組員5名が死亡、8名が負傷、39名が捕虜となった。

 これがサンターンドレア要塞の初めての戦闘だった。

サンターンドレア要塞の防衛機能

サンターンドレア要塞平面図

※サンターンドレア要塞平面図

 サンターンドレア要塞は中央の主要部と左右の翼によって構成された石造りの要塞であり、合計43門の艦砲が並べられていた。

 敵艦が港に入港しようとしたとき、その艦船は常に要塞正面から十字砲火に晒されることになり、200m以内の近距離から砲撃できるため、命中率も高いだろうことが予想される。

 観測、警備、通信機能も有しており、別の長距離砲40門以上の列が大きな胸壁上部と入り口の上に設置されているため、リド島を越えての砲撃も可能である。

 この要塞は実際の防御というよりも、他国からの訪問者や大使に見せ、抑止力とすることが主要な役割だった。

イタリアの解放者に関するナポレオンの報告

 4月30日、ボナパルトはこの「イタリアの解放者事件」についてフランス政府に報告している。

 

◎ナポレオンによる「イタリアの解放者事件」の報告内容

「市民ロージェはトリエステを出発したばかりだった。

 彼は8隻から10隻の砲艦で構成される皇帝の船団に出迎えられた。

 そして一日の一部を彼らと戦い、その後ヴェネツィアの大砲の下に避難しようとした。

 しかし砦からのブドウ弾によってそこに迎えられた。

 彼は乗組員に船倉に入るように命令し、なぜ自分が騙され、敵扱いされなければならないのかを尋ねた。

 しかし同時に、被弾し、ロージェは硬いデッキに投げ捨てられた。

 泳いで逃げていた船員がスクラヴォン族(ヴェネツィア軍を構成する人種の1つ)に追われ、オールで殺害された。」

 

 ボナパルトの報告によれば非は中立を侵したヴェネツィア側にあるように見えるが、実際のところロージェが領海を侵したのである。

 そのため、ボナパルトのこの報告内容は、部下がこのように報告したか、捏造したかのどちらかであり、恐らく後者だろうと考えられる。