ジェノヴァ共和国の滅亡 01:ナポレオンによる北イタリア支配
Napoleon's domination of northern Italy
北イタリア安定統治のための整備案
ヴェネツィア共和国が滅亡する数日前の5月14日、ボナパルトはフランス本国からミラノへの後方連絡線を増やし、より短いものとするための提案をフランス政府に行なっていた。
その内容は、数ヶ月間かけてジュネーヴの側にあるレマン湖(Lec Lemann)からミラノの北西に位置するマッジョーレ湖まで道路を整備し、軍道を敷くというものだった。
これによりミラノへの物資や情報の往来がよりスムーズになり、北イタリアの統治がよりしやすくなるだろうと考えられた。
ベルナドット将軍からの苦情の対応
1797年5月17日、ボナパルトはヴェネツィアの統治に時間を割き、翌18日、各師団へ移動命令を下した。
◎各師団の行軍計画
ベルナドット師団は5月25日にトリエステを出発してモンファルコーネに向かい、26日にはパルマノヴァ、27日には補給基地のあるウーディネに到着し、そこに滞在する。
マッセナの師団は5月23日にゴリツィアを出発してコルモンスへ向かい、24日にはウーディネ、25日にはコドロイポ、26日にはポルデノーネ、27日にはコネリアーノ、28日にはカステルフランコ、29日には補給基地のあるパドヴァに到着し、追って通知があるまでそこに滞在する。
ヴィクトール師団は5月21日にパドヴァを出発してメストレに向かい、22日にはトレヴィーゾ、23日にはコネリアーノ、24日にはポルデノーネ、25日にはスピリンベルゴ、26日にはオソッポに到着し、その後ポンテッバに向かう。
ヴィクトール師団の倉庫はジェモナ(Gemona)にある。
また、オージュロー将軍麾下のギウ師団は5月24日にクラーゲンフルトを出発してフィラッハへ向かい、25日にはタルヴィジオ、26日にはポンテッバ、27日にはルシウッタ、28日にはオソッポ、29日にはスピリンベルゴ、30日にはポルデノーネに到着し、31日はポルデノーネに滞在する。
その後、6月1日にはポルデノーネを出発してコネリアーノに向かい、2日にはカステルフランコ、3日にはチッタデッラ、4日にはヴィチェンツァ、5日にはモンテベッロ、6日には倉庫のあるヴェローナに到着する。
この命令はレオーベン条約を遵守するためにオーストリアに徐々に占領地を引き渡すのと同時にベルナドット師団とマッセナ師団を引き離すことが目的だった。
ボナパルトは5月9日と10日付のベルナドット将軍からの苦情と要求を受け取っており、それに対応したのである。
ベルナドット師団はイタリア方面軍に受け入れられておらず、ベルナドット将軍はパリに帰還することを要求しおり、恐らくゴリツィアにいるマッセナ師団から何らかの嫌がらせを受けたのだろうと考えられる。
4月末~5月初めのリュブリャナでの事件以来、マッセナ師団とベルナドット師団の関係には完全に亀裂が入っていたが、ボナパルトは両師団の競争心を利用するために隣どうしに配置していたのである。
ボナパルトはこの苦情と要求に対し、トリエステのベルナドット師団と近い位置にいるマッセナ師団をパドヴァへ向かわせて両師団の距離を離し、パリに帰還するのはオーストリア帝国との最終的な和平が締結された後であり、現時点で分かっていることはイギリスかポルトガルへの遠征のどちらかを選択することになるだろうことをベルナドットに伝えた。
その後、ボナパルトはミラノを離れモンテベッロに旅立った。
ナポレオンによる北イタリア支配構想
5月19日時点でボナパルトはフランス領となった、もしくはこれからフランス領とするであろう北イタリアの領土を3つの姉妹共和国によって支配する構想をすでに考えていた。
◎ナポレオンによる北イタリア支配構想
※各国の境界線はおおよそのイメージであり不正確である。そしてこの構想は1797年5月19日時点のものであり、レオーベン条約に基づいて構想されている。
3つの姉妹共和国とは、ロンバルディア州、ベルガモ、クレマ、モデナ、マッサ=カッラーラ、ガルファニャーナ、スペッツィア湾から成り、人口180万〜190万人の住民を擁するチザルピーナ共和国。
ボローニャ、フェラーラ、ロマーニャ、ヴェネツィア、ロヴィーゴ、トレヴィーゾの一部、および群島の島々から成り、人口160万~180万人の住民を擁するチスパダーナ共和国。
オーストリア帝国領、ジェノヴァおよびスペッツィア湾を除くジェノヴァ州からなるリグーリア共和国である。
そしてジェノヴァ共和国で民主主義を叫び、ボナパルトの元に議員を派遣させ、ヴェネツィア共和国と同様の運命を辿らせ、リグーリア共和国に併合させるのである。
つまり、この時点のボナパルトはトランスパダーナ共和国をチザルピーナ共和国とし、新たにジェノヴァ州にリグーリア共和国を建国することを考えていたのである。
しかしこれらは民主主義共和国であり、フランス軍の圧力があるとはいえ選挙が実施されるため、他国によるプロパガンダの流布により反フランスに傾く可能性も無いわけではなかった。
実際、教皇は司教などをこれら共和国に派遣し、キリスト教の影響力を使って選挙を教皇領にとって有益な方向へと誘導しようとしていた。
ボナパルトはこのことを察知し、対策を迫られていた。
そして個人的な略奪を取り締まり、軍の規律を向上させるのと同時に安定した統治を行なおうとしていたが、姉妹共和国の国庫はほぼ空であり、国民に重税が課されていた。
このように個人の略奪を取り締まる一方で組織的な略奪は行なわれ、、国民は恐怖によって押さえつけられていたため国民の意思に基づく選挙を行うことはできず、民主主義とは名ばかりのものだった。
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