カンポ・フォルミオ条約 
Treaty of Campo Formio (1797)

※カンポ・フォルミオ条約の締結。当時馬車宿だったベルトランド・デル・トーレ邸で署名されたのだが、ほとんどイラストではテントで署名したこととなっている。

エジプトへの野望

 ボナパルトはボン将軍とランヌ将軍に合計約5,000人を指揮させてフランス南部に派遣していたが、フランス政府にもフランス南部への増援を求めていた。

 そしてイオニア諸島の占領が完了したことを報告した。

 1797年9月13日、ボナパルトはフランス政府にマルタ騎士団が守るマルタ島を占領することを提案し、もしイギリスと和平を行いイギリスが喜望峰を手放さざるを得なくなった場合、8隻か10隻の戦列艦とヴェネチアのフリゲート艦に護衛された25,000人の兵力を率いて北イタリア(ヴェネツィアやアンコーナ)から出港し、エジプトを占領する計画を打診した。

 ボナパルトは対オーストリア戦線だけでなくヨーロッパ全体を戦略的な視点で見てフランスにとって有効な戦略を考えており、この時点ですでにエジプトへの遠征を考えていた。

 当時イギリスは、東インド会社などを通じてアジア方面の植民地からの収入や貿易などによって国家財政を大きく支えており、貿易品などは紅海を航行し対インド貿易の玄関口であるスエズを経由して陸路でカイロに運び、そこからナイル河を利用して港湾都市ロゼッタ(ラシード)から地中海に出てイギリスはもちろんヨーロッパ各国へと行き来していた。

※当時の国際港はアレクサンドリアではなく、ロゼッタだった。

 そのためエジプト(特にアブキール湾周辺海域、カイロ、ロゼッタ)をフランスの支配下に置くことができれば、イギリスはアフリカ大陸を迂回する喜望峰を経由するルートでヨーロッパ ― インド間を往来しなければならなくなる。

 そしてもしイギリスが喜望峰を手放した場合、喜望峰を経由するルートも断つことができ、イギリスはアジアとの貿易路を失ってしまうのである。

 ボナパルトはイギリスの急所はエジプトであると考えていた。

 「イギリスが喜望峰を手放したら」との条件付きであり打診に留まっていたのは、恐らくオーストリア軍の動きが不穏であり最終的な和平が締結されていないためだったのだろう。

戦いの準備

 9月13日、オーストリア大使メルヴェルト伯爵は外務大臣トゥーグトを説得して和平を締結するためにウィーンへ旅立った。

 ボナパルトはもしマインツをオーストリアが手放すならフランスはヴェネツィアを手放しアディジェ川までをオーストリア領とすることを考えていた。

 そしてフランス軍がマインツを占領するまではパルマノヴァ要塞やオソッポ要塞を手放してはならないと考えていた。

 ボナパルトは様々な手配を行い、9月17日、イオニア諸島を占領したブリューイ将軍にアドリア海を完全に制圧するために戦列艦2隻、フリゲート艦4隻、コルベット艦4隻を編成するよう命じた。

 9月19日、ボナパルトはメルヴェルト伯爵からの書簡を受け取った。

 トゥーグトの意図は戦いによってではなく話し合いによってオーストリアに少しでも利益をもたらすことだとボナパルトは感じていた。

 そのためウィーン政府の馬鹿馬鹿しい行動にフランス政府が激怒していると返信した。

 そしてもし9月中に最終的な和平が締結されなかった場合、戦争も辞さないことを示唆した。

 同日、フランス南部に派遣していた軍(ボン師団とランヌ旅団)に対し、その一部をミラノに戻すよう命じた。

 フランス本国は表面上の平穏を取り戻しており、ボナパルトはイタリアを防衛する必要があった。

 その後、負傷した士官や兵士をリヨンやマルセイユなどの後方に送り、健康な士官や兵士と入れ替えるよう手配した。

 ボナパルトは戦いの準備を着々と進めていった。

和平交渉決裂の予感

 9月23日、ボナパルトの元にオーストリア軍がダルマチアの南に位置するアルバニア(Albanie)を占領したとの報告が舞い込んできた。

 ボナパルトは即座に「イストリアとダルマチアの占領はレオーベン条約に違反していないが、アルバニアの占領は違反している。」と即時撤退を求める書簡を送った。

 軍事的緊張が高まる中、10月6日時点でオーストリアとの交渉は決裂寸前の状況となっていた。

 そのため10月7日、ボナパルトはリヨンとマルセイユに派遣していたボン師団とランヌ旅団をシャンベリー、ミラノやトルトナを経由してマントヴァへ向かよう命じ、南方軍司令官であるベルナドット将軍にこれらのことを伝えるよう指示した。

※10月7日時点まではベルナドットは南方軍司令官であると思っていたことがわかる。

 メルヴェルト伯爵はトゥーグトとボナパルトの間の交渉を決裂させずに必死に繋ぎとめていたが、オーストリア軍はボナパルトの警告にも応じず、戦う姿勢を見せており、トゥーグトの要求は増大していた。

 トゥーグトはコベンツェル伯爵に全権を与えてウディネに派遣した。

戦争大臣ベルナドット誕生の予感

 1797年10月中旬頃(恐らく10月8日から10月15日の間のある日)、パリに派遣しているボナパルトの副官ラ・ヴァレッテからベルナドット将軍が戦争大臣に任命されることが議論されているという書簡を受け取ったボナパルトはフランス政府とバラスに抗議の書簡を送った。

 ボナパルトとしては(恐らく良い印象を持っていない)ベルナドットが方面軍司令官より上の戦争大臣になりボナパルトに命令を下す未来は受け入れがたいものだったのだろう。

ベルナドット師団の優れた護衛と規律正しい出迎え

 10月11日、すでにメルベルト伯爵やデゲルマン男爵らと合流していたコベンツェル(Johann Ludwig von Cobenzl)伯爵はウディネのフロリオ宮殿(Palazzo Florio)でボナパルトを待っていた。

 午後2時、ボナパルトがパッサリアーノからウディネに到着した。

 ベルナドット師団の参謀は2個騎兵連隊と立派な軍服を着た士官100人を率いてボナパルトを護衛していた。

 そして街路すべてに武装した兵士が並んでいた。

 ボナパルトは参謀に感謝の意を表したが、参謀はベルナドット将軍とボナパルトの関係を少しでも良好にしたいと考えていたため、気を利かせて「ベルナドット将軍がパリへの出発前に表明した意図を遂行しただけです。」と答えた。

 このことを聞いたボナパルトはベルナドット将軍にいたく感心したと言われているが、実際のところベルナドットはその様な指示は残していなかった。

※コベンツェルがウディネに派遣された日及びベルナドット師団がウディネでナポレオンを歓迎した日はもっと前の別日である可能性がある。

ナポレオンによる戦争再開の示唆

※ウディネでの最終的な和平の交渉時、ナポレオンが磁器を壊している場面が描かれたポストカードのイラスト。イラストの中で壊されているのは花瓶である。

※「ナポレオン・ボナパルトとフィリップ・フォン・コベンツェル カンポ・フォルミオ条約交渉 1797」。フレデリック・テオドール・リックス(Frédéric-Théodore Lix)画。19世紀後半。イラストの中で壊されているのはカップとソーサ―、そしてポットである。

 ボナパルトがフロリオ宮殿に到着するとすぐに会談が開始された。

 「陛下は平和を望んでいますが、戦争も恐れていません。私は少なくとも興味深く有名な男の悪名を広めることができたという満足感を持っています。」

 会談が始まるとコベンツェルは対立の構図を明らかにした。

 最後の懸案はマントヴァ要塞の所有権だった。

 オーストリアはマントヴァ要塞を所有したいと考えており、ボナパルトもまたチザルピーナ共和国に組み込みたいと考えていた。

 オーストリア側は、マントヴァ要塞はレオーベン条約で定められたようにオーストリア側に帰するものであると主張し、ボナパルト将軍はフランスの利益ではなく個人の利益を追求しようとしていると非難した。

 これらのことを黙って聞いていたボナパルトは激怒して立ち上り「さて、平和は破られ、宣戦布告がなされた。しかし、秋が終わる前に、この磁器を壊すようにあなた方の君主制を壊すことを覚えておいてください。(Eh bien, la paix est donc rompue e la guerre déclarée; mais ressouvenez vous qu'avant la fin del l'Automne je briserai votre monarchie Come je brise cette porcelaine, od altre.)」と近くのお盆を手に取った。

 ボナパルトは、手に取ったお盆を力の限り床に叩きつけた。

 お盆の上に乗っていた「この磁器」は千の破片に砕け散った。

 「この磁器」はコベンツェル伯爵がロシアの女帝エカチェリーナ2世から贈られたものであると自慢していたものだった。

※「この磁器」が何かについてはインク壺、花瓶、カップなど諸説あり、お盆に乗っておらずナポレオンが手で落としたという説や壊すという脅しだけで実際は壊していないという説もある。

 そして午後8時、ボナパルトは別れの挨拶も無しにパッサリアーノへ出発した。

 このニュースはすぐに北イタリアを駆け巡り、北イタリアの市民達は戦争の再開に伴い再び賦課や徴発が行われるのではないかと懸念した。

 フランス軍はすでに戦争の準備はできていた。

 この日、コベンツェルはウィーンに急使を派遣し、最終的な和平が決裂しようとしていることを伝え、マントヴァ要塞を諦めることを求めた。

 10月12日、ボナパルトはガロ侯爵とともに昼食を取り、ガロ侯爵は午後8時に再びウディネに戻った。

 昨日の会談で戦争の再開を示唆したにも関わらずボナパルトは落ち着いており、軍の移動については何も命令を出さず、新たな攻撃の場合に備えてすべての準備が整うように命令を出しただけだった。

 オーストリア側がどのような選択を行なったとしてもボナパルトはそれに対応する準備をすでに講じていたのである。

ベルナドット将軍の新たな出発

 10月14日、ベルナドットがウディネに帰還した日、ボナパルトはパッサリアーノからベルナドットに会いにウディネに来た。

 そして以前、オーストリアの全権大使コベンツェル伯爵との会談のためにウディネに訪れた際の護衛と兵士達の歓迎の手配について感謝した。

 しかしベルナドットはそのことは知らなかったため、「その手配について私は知らないが、部下たちが私の願いを察してくれて嬉しい。」と笑った。

 ボナパルトはこの発言と笑い声を不快に思ったと言われている。

 その後、ボナパルトはベルナドットをパッサリアーノでのディナーに招待し、「早く」来るよう言った。

 ベルナドットは「早い」という言葉をあまりにも文字通りに受け取ったため、夕食の時間の5時少し前ではなく、午後3時に参謀のサラザン将軍とともに現れた。

 その時ボナパルトは執務中であり、各部門への書簡を書いていた。

 そのため副官のデュロック(Duroc)は少し待ってくれるよう頼んだ。

 しかしベルナドットは「ベルナドット将軍が控え室で待つのはふさわしくないと言っていると総司令官に伝えてください。パリの総裁でさえそのような屈辱にさらしたことはありません。」と要求した。

 デュロックが答える前にボナパルトが姿を現し庭園を散歩しようと提案した。

 サラザンの目には、ボナパルトは甘く天使のようにベルナドットを歓迎したが、怒りと苛立ちで唇を噛んでいるように見えた。

 ベルナドットは「自分は穏やかな手段でしか男性の信頼を得ることができない国の出身であり、あなたはいつもとても丁寧に接してくれたので、デュロックが待ってくれと言ったときは驚きを隠せなかった。」と答えた。

 かくしてボナパルトとベルナドットはサラザンを伴ってパッサリアーノの庭園へ夕食前の散歩に出かけた。

 そこで各将軍、ライン軍とイタリア軍についてお互いが思っていることを話した。

 次にボナパルトは、成功する最高司令官に必要な資質を列挙し、アレクサンドロス、カエサル、ハンニバル、そしてあらゆる時代の偉大な指揮官全員の相対的な長所と業績について議論を始めた。

 時折、彼はわざとベルナドットに意地悪な質問をし、教育を受けていないこのガスコーニュ人(ベルナドット)が答えられないことは分かり切っていた。

 ボナパルトはギリシャのファランクスの形成とローマ軍の組織について詳しく説明した。

 ベルナドットは優秀な実践的な兵士ではあったものの、こうした事柄には疎く、ひどく興奮し、大量の汗をかいた。

 そこへ夕食の鐘がなり、ベルナドットは助かった。

 夕食にはゲストとしてメルヴェルト伯爵がおり、再び軍事学の話題となった。

 レオーベンでの会談以来ベルナドットと友好関係を結んでいたメルヴェルト少将は、友人が話題についていけず困っているのを見て、会話を歩兵の機動に移した。

 これによってベルナドットにチャンスが与えられた。

 話題がベルナドットの得意分野に移り、ボナパルトも屈服せざるを得なかった。

 夕食後、ベルナドットは参謀に、ボナパルトはこの年齢でこれほど知識が豊富であるということは、並外れた学習能力を持っているに違いないと語った。

 そして、もし彼(ベルナドット)がそれほど年をとっていなかったら、ためらうことなく勉強するだろう、と。

 参謀は、学ぶのに十分な時間はいつでもあるし、ベルナドットはまだ35歳だし、戦争理論の実際的な側面をよく知っているので、戦争理論をもっと簡単に学べるだろうと答えた。

 ベルナドットの人生の新しい時代がこの瞬間から始まった。

 前日まで偶然本を手に取っていたらアンニュイであくびをしていたであろうその男は、今では軍事、政治の歴史、科学に関する最高の著作をすべてマスターするために昼も夜も過ごし始めている。

 暇なときは、彼は何人かの士官を呼びに行き、彼らと読んでいる本について話し合った。

 私たちは、その後の彼の手紙や会話の中で、これらの研究の証拠を見つけるだろう。

 2年後、パッサリアーノでの晩餐会の同伴者が彼に再会し、彼がガラットと歴史について、タレーランと政治について、最も有能な科学専門家と戦争について話し合っているのを聞いて衝撃を受けた。

 そしてベルナドットは、彼のすべての研究と、そこから得たすべての知識は、1797年10月のあの夜まで遡ることができると率直に認めた。

 彼が夕食には早すぎてボナパルト将軍のところに行って、自分の無知の深さを発見したときのことである。

 パッサリアーノ城で、ベルナドットはボナパルト夫人と知り合った。

 ベルナドットはジョゼフィーヌの最初の夫であるボアルネ将軍の下で、1793年にライン川で勤務していたことがあった。

 ジョゼフィーヌは、和平締結を求めるベルナドットの願いに心から同意する機会があった。

 彼女は礼儀正しく愛撫するような言い方で付け加えた。

 あなたがドイツから連れてきてくれた優れた援軍のおかげで、すべてがフランスにとって輝かしい条約締結に向けて進んでいます。」

カンポ・フォルミオ条約の締結

 最終的な和平が交渉決裂寸前でありボナパルトが戦争の再開を示唆したことを知ったウィーン政府はマントヴァ要塞を諦めることを決断した。

 ウィーン政府は王党派が政権を握っていれば戦争を再開しただろう。

 しかしフランス国内ではフリュクティドール18日のクーデターによりオーストリアに友好的な王党派は敗北し、共和派が政権を掌握していた。

 後方においてはハンガリーの反乱はクロアチアにも飛び火しており、さらに過激化するのではないかと思われた。

 そのためウィーン政府は交渉に限界を感じ、戦争を回避するために動いたのである。

 10月16日正午、条約締結の許可を得た急使がウディネに帰還し、コベンツェルはこのことをボナパルトに伝え、翌17日にパッサリアーノとウディネの中間に位置し、通り道であるカンポ・フォルミオ(Campo Formio)村で署名したいことを伝えた。

 そして1797年10月17日、ボナパルトとコベンツェル伯爵等は当時馬車宿だったベルトランド・デル・トーレ邸で和平条約に署名した。

 ナポレオンの恐怖に屈したオーストリア帝国は遂に第一次イタリア遠征における最終的な和平であるカンポ・フォルミオ条約を締結した。

※ナポレオン1世書簡集には、10月18日午前1時にカンポ・フォルミオで和平調印が行われたと記されているが恐らくフランスとイタリアの時差なのではないかと考えられる。

 これまでの間に議論はすべて尽くされていたため、カンポ・フォルミオ村では条約の内容の協議などはせず署名のみが行なわれたと言われている。

 しかしカンポ・フォルミオ条約は多くの事項について定められたものの一部の未解決問題を残している不完全な和平条約であり、完全な紛争の解決はラシュタット会議に持ち越された。

 フランス政府は平和を望んでおり、カンポ・フォルミオ条約が結ばれて平和が到来したことを宣言した。

 タレーランも「これで平和が実現した、そしてボナパルトによる平和だ!」と祝福したが、平民出身の有力議員シエイエスは「この条約は和平ではない、新たな戦争への呼びかけだ!」と主張した。

 ボナパルトとしては戦うことなくこれ以上を望むことができない条約だった。

 10月18日午後2時、ボナパルトはベルティエ将軍と政治家で数学者のガスパール・モンジュ(Gaspard Monge)にカンポ・フォルミオ条約文書を持たせてパリに派遣した。

 ベルティエの代わりはデソール(Jean-Joseph Dessolles)将軍が務めることとなった。

 このカンポ・フォルミオ条約の締結によってフランスに敵対している国はイギリスのみとなり、第一次対仏大同盟は完全に崩壊することとなり、第一次イタリア遠征は終わりを迎えた。

ジョゼフィーヌの指輪の伝説

 1797年9月17日にパッサリアーノで夫ナポレオンと合流したジョゼフィーヌだったが、パッサリアーノにはジョゼフィーヌの興味を引くようなものは何もなく退屈な日々を過ごしていた。

 そのため華やかな舞踏会やパーティなどに参加するためにウディネとパッサリアーノの間(約25㎞)を頻繁に行き来していた。

 ある日、ジョゼフィーヌは侍女たちと護衛隊を伴って、休憩のためカンポ・フォルミオ村に立ち寄った。

 ジョゼフィーヌが休憩を終えて店(恐らく居酒屋)を出た後、指に嵌めていた貴重な宝石があしらわれた大切な指輪を失くしたことに気づいた。

 ジョゼフィーヌ一行はバサルデッラ(Basaldella)とカンポ・フォルミオを通ってパッサリアーノ-ウディネ間を行き来していたため、「ジョゼフィーヌの貴重な宝石はカンポ・フォルミオとバサルデッラの間の田園地帯のどこかで見つかるはずである。」と言い伝えられていると言われています。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Dunbar Plunket Barton著「Bernadotte, the First Phase, 1763-1799」(1914)

・「"Pagine Friulane" periodico mensile di storia letteratura e volk-lore friulani」(1889)

・Paolo Foramitti, Daniela Pegoraro, Annarosa Toffoli 編「Al tempo di Napoleone. Leggende e racconti in Friuli」(2011)

・その他