【エジプト遠征】ネルソン戦隊の出航とウィーンでの事件の影響【ナポレオン】
The departure of Nelson Squadron and the impact of the Vienna incident
ネルソン戦隊のリスボンからの出航
※「ホレーショ・ネルソン子爵」。レミュエル・フランシス・アボット画。1797年
※右腕を失った傷が完治した直後のネルソン少将の肖像画。この肖像画が描かれた後の1798年4月10日、ネルソンはヴァンガードに乗ってロンドンからリスボンへ向かった。
イギリスはトゥーロンや地中海沿岸におけるフランス軍の活動を把握していたが、フランスに駐在する諜報員の努力にも関わらずフランス艦隊の目的地は不明だった。
イギリス東インド会社の実質的トップである管理委員会議長であり陸軍国務長官でもあるヘンリー・ダンタス(Henry Dundas)が外務大臣ウィリアム・ウィンダム・グレンビル(William Wyndham Grenville)に「エジプトが目的なのではないか?」と伝えたが、グレンビルは「地図を見て距離を測って欲しい」とエジプトへの侵攻の可能性を否定した。
※トゥーロンから港町アレクサンドリアや港湾都市ロゼッタ(ラシード)までの航路は約2,800㎞。当時の帆船の速度は順風(追い風)時で約5ノット(時速9.3㎞)ほどであり、常に順風というわけではないことも想定すると、おおよそ30日~40日かかる計算となる。(天候が悪い日が続けばより多くの日数が必要となる)
フランス艦隊の目的は不明だったためイギリス政府はテージョ川の河口にあるリスボンに拠点を置くイギリス地中海艦隊司令官ジョン・ジャービスに、フランス艦隊の動向の観察を命じた。
1798年5月2日、ジャービス提督は極秘命令をネルソンに下した。
ジャービス提督はジブラルタル港の艦隊の一部を率いプロヴァンスかジェノヴァのいずれかの海岸でその遠征の目的地を確認するよう努めるよう指示し、一部の報告によるとその目的地はシチリア島とコルフ島であり、その他の報告によるとポルトガルまたはアイルランドであるという情報も同時に伝えた。
そしてスペイン南東部に位置するカタルヘナ港のスペイン戦隊に合流するつもりであることが判明した場合、すぐに船をジャービス提督の元に派遣し、注意を払うよう命じた。
ネルソンは旗艦「ヴァンガード」に乗船してポルトガルのリスボンを出航しジブラルタル港へ向かった。
5月4日、ネルソンはジブラルタル港に到着し、その後、5月7日までに旗艦「ヴァンガード」とジブラルタル艦隊の一部で小規模な戦隊を編成した。
ウィーン事件の影響によるエジプト遠征の遅延
ウィーンでの事件は戦争に発展することなく事態は収束に向かったが、ボナパルトが暫くパリに釘付けになり、イタリア方面軍の支援に向かったドゼー師団の一部をチヴィタヴェッキアに戻すためにエジプト遠征はおよそ数日の遅延が発生した。
※ナポレオンは4月28日までには事件のことを知らされており、この日にパリを発とうとしていた。実際にパリを発つことができたのは5月2日であるため4日間の遅延が発生したことになる。もしラシュタットに行かなければならなくなった場合、交渉が上手くいったと仮定して20日ほどの遅延が発生しただろうと考えられる。
※ラス・カーズ伯爵の「セントヘレナ回想録」の中には「この事件によりエジプトへの遠征は15日遅れた。」と書かれているが、トゥーロンへの出発日で換算すると4日の遅延である。
※タレーランの外交文書の中には、4月26日までにはナポレオンに知らされているような内容の文書があるため、それよりも早く知っていた可能性がある。
そして5月2日、マルセイユとジェノヴァの船団をトゥーロン船団に合流させるために出航命令を出し、ドゼー将軍が指揮するチヴィタヴェッキアの船団には錨を上げる準備を整えておくよう命じた。
これらの命令を発した後、ボナパルトはすぐにパリを離れ、5月6日にリヨンに到着し、5月9日にトゥーロンに到着した。
そしてアジャクシオにいるはずのメナード将軍にサルディーニャ島北に位置するマッダーレナ島へ向かうよう命じた。
この日、レイニエ師団がマルセイユを出航し、残りの船団はドゥガ将軍が指揮を執った。
ネルソン戦隊のジブラルタルからの出航
5月8日夜、ネルソンは旗艦「ヴァンガード」、三等戦列艦「オリオン」、三等戦列艦「アレクサンダー」、アマゾン級5等フリゲート艦「エメラルド」、アマゾン級5等フリゲート艦「テルプシコーリ」、フィービー級5等フリゲート艦「キャロライン」、フィービー級5等フリゲート艦「フローラ」、フランスから奪い取ったコルベット艦を改造したスループ船「ボンヌ・シトイエンヌ」とともにジブラルタルを出航し、トゥーロンに向かった。
「オリオン」はジェームス・ソーマレス(James Saumarez)艦長、「アレクサンダー」はアレクサンダー・ボール(Alexander Ball)艦長、「エメラルド」はトーマス・マウトレイ・ウォーラー(Thomas Moutray Waller)艦長、「テルプシコーリ」はウィリアム・ホール・ゲージ(William Hall Gage)艦長、「キャロライン」はウィリアム・ルーク(William Luke)艦長、「フローラ」はR.G・ミドルトン(R.G Middleton)艦長、「ボンヌ・シトイエンヌ」はジョサイア・ニスベット(Josiah Nisbet)艦長が指揮を執った。
目的はトゥーロンのフランス艦隊の動向の観察だったため、小規模な戦隊しか与えられることはなかった。
ネルソンは「キャロライン」と「フローラ」に別動隊として十分な注意を払ってジブラルタルから東に海岸沿いを進んでバルセロナを観察し、バルセロナの北東にあるサン・セバスティア岬からトゥーロン間の偵察を行ない、フランス艦隊の情報を得次第ジブラルタルに海峡を通過する連絡をした上でカディス沖のジャービス提督の元に向かうよう命じていたため途中で分かれることとなった。
※ジョサイア・ニスベットはテネリフェ島サンタ・クルスの戦いで右腕を失ったネルソンの命を救った義理の息子である。1798年5月、ネルソンがジョサイアのために「ボンヌ・シトイエンヌ」を欲しがり、艦長に据えたというエピソードがある。
ネルソンは暗闇の中、スペイン軍に発見されないようジブラルタル港を出港し、地中海に向かおうとした。
しかしスペイン軍に発見されてしまい、ジブラルタルの南西にあるカルネロ岬(Punta Carnero)から砲撃を受けた。
砲弾が戦列艦「アレクサンダー」に命中したが損傷は軽微であり、ネルソンはそのまま地中海へ乗り出した。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)
・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」
・その他
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