エジプト遠征準備の開始とウィーンでの事件【ナポレオン】
The start of preparations for the invasion of Egypt and the events in Vienna
※「スフィンクスとピラミッド」。「エジプト誌」より。
エジプト遠征準備の開始
1798年3月5日に東洋軍総司令官となったボナパルトは、すでに考案していた計画を実行に移すべく、各方面に命令を発した。
※エジプト遠征最初期の兵力
そしてこれら港に兵士と大砲を移動させ、倉庫にそれぞれ1ヶ月分の水と2ヶ月分の食糧を備蓄するよう命じた。
ドゼー(Desaix)将軍はチヴィタヴェッキア、クレベール将軍はトゥーロン、バラグアイ・ディリエール将軍はジェノヴァ、ヴォーボワ将軍はコルシカ島アジャクシオ、レイニエ(Reynier)将軍はマルセイユに向かい指揮を執った。
※エジプト遠征前の各師団集結地点と最初の目標であるマルタの位置
それぞれの港にはこれらの師団の補給所が置かれ、各師団からエジプトへの補給は別々の港から師団ごとに分担された。
そしてフランス政府に科学芸術委員会(Commission des Sciences et des Arts)を設立することを要請した。
科学芸術委員会の設立
3月16日、フランス政府はボナパルトの要請に応じ、科学芸術委員会の設立を命じた。
ボナパルトは命を受けると片足の工兵司令官カファレッリ将軍に科学芸術委員会の会員を募り、組織化を行うよう命じた。
数学者や天文学者、医師や地理学者、芸術家、その他多くの技術者などが科学芸術委員会の会員となり、その大半がエジプト遠征に随行することとなった。
ボナパルトは科学芸術委員会会員を軍隊のように組織し、科学芸術軍団のようなものを形成した。
そして会員を5部門に分けて科学的役割を与え、各人に軍事階級と補給などの役割が与えられることとなった。
ルイ・二コラ・ダヴーとの面会
3月22日、ドゼー将軍はパリのシャントレーヌ通りのボナパルト将軍の邸宅で友人ルイ・二コラ・ダヴー将軍を自身の上司と引き合わせた。
ダヴーはエジプト遠征に同行できることを願っており、自分を売り込んだ。
ボナパルトは周囲の話からダヴーのことを野獣のような男と思っており、第一印象は良くなかった。
しかし、この時の面会でダヴーの印象が変わった。
この面会の後、ドゼー将軍の推薦もあり、ボナパルトはダヴー将軍を東洋軍に配属させ、騎兵指揮官に任命した。
東洋軍設立の公表
3月30日までにそれぞれの港に各師団のおおよそ集結の見込みが立つと、4月5日、マスケット銃が不足していることに気付きマスケット銃20,000挺をトゥーロンに送るよう戦争大臣に要請した。
そして艦船や輸送船などをこれらの港に移動させ、海戦と上陸のための準備を継続させた。
4月12日、フランス政府は東洋軍設立についての法令を発布し、現在のイングランド方面軍総司令官ナポレオン・ボナパルト将軍が総司令官となることに署名した。
東洋軍の目標は対外的に隠され、フランス内部でもごく一部の者しか知らされなかったが、「エジプトの占領」、「イギリス所有の紅海にある交易施設の破壊」、「スエズ地峡の遮断」、「紅海の支配」と正式に定められた。
※この時点ではスエズ運河はできておらず、スエズは地峡だった。
※地峡とは海や湖などの水域に挟まれて細長い形状をした陸地のこと。海峡の逆。
地中海における後方連絡線の確保
「ブーツのつま先の前」にあるシチリア島と「最初のアフリカ」であるチュニジア及びリビアの間にマルタ島があり、コルシカ島からエジプトまで航海した場合、マルタ島周辺海域を必ず通らなければならない。
※チュニジアはアフリカと呼ばれた最初の国であり、アフリカは最初西洋世界の人達からリビアと呼ばれていた。
しかし聖ヨハネ騎士団(後にマルタ騎士団と一般的に呼ばれることになる)が統治するマルタ島は、中継地点として利用することができないばかりか、中立と宣言していたがフランスに敵対的だった。
※1798年当時、マルタ騎士団という名称は使用されておらず、「エルサレムの聖ヨハネ騎士団(order of Saint John of Jerusal)」が正式名称だった。国際的にも、1802年に締結されたアミアンの和約において「エルサレムの聖ヨハネ騎士団」の名称が使用されている。マルタ騎士団の名前が通称として使用され始めたのは1800年前後あたりからである。現在の正式名称は「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会(直訳すると、エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権の軍事と病院の騎士団)」であり通称マルタ騎士団と呼ばれている。そのため正式には現在も聖ヨハネ騎士団である。
ボナパルトはコルシカ島からエジプトまでの間に後方連絡線維持のための中継拠点を欲しており、フランス政府はボナパルトにマルタ島の占領を正式に命じた。
ボナパルトは聖ヨハネ騎士団の総長の死期が近いことを知っており、第一次イタリア遠征中からマルタ島を支配下に置くようフランス政府に提案していた。
フランス政府はその提案を聞き流していたが、エジプト遠征の実行が現実のものとなったため受け入れられたのである。
実際、1797年7月に聖ヨハネ騎士団総長が死亡し、その後新たな総長が任命されていた。
対イギリス戦略
ボナパルトは対イギリスについても考えていた。
大西洋方面で艦船を建造させていたが、夏中までにその多くが完成し、同時に水兵の訓練を行うことで大西洋方面を大規模に増強することができる。
そうすればイギリスもフランスの大西洋沿岸側に、より多くの艦船を振り向けなければならなくなるという考えである。
恐らくボナパルトはスペインのカディス港を封鎖中のイギリス地中海艦隊がジブラルタル海峡を通って地中海に侵入してくることを懸念しており、そのためイギリス地中海艦隊を大西洋側に引き付けておきたいと考えていたのだろう。
しかしこの時のボナパルトは「エジプト遠征をしてアレクサンドロス大王の足跡を辿りたい」という欲が勝っており、恐らく冷静では無かった。
イギリス地中海艦隊はポルトガル王国のリスボンと大西洋から地中海の出入口にあり「地中海の鍵」と呼ばれるジブラルタルに拠点を持っており、地中海への出入りは自由に行えた。
そして当時のイギリス海軍は世界最強との呼び声が高く、海戦となった場合、フランス海軍が敗北する可能性は高かった。
エジプトからフランスへの安全な後方連絡線を確立するためにはジブラルタルを攻略し、当時封鎖されていたスペインのカディス港の封鎖を解き、スペイン艦隊とともにジブラルタル海峡を封鎖して地中海の制海権を完全に手に入れることが必要だった。
しかしボナパルトはそれらを行なわずにエジプト遠征を強行し、希望的観測により後方連絡線を蔑ろにした。
ウィーンでの事件
「ベルナドットのウィーン事件」。Las Cases著「Memoriale di Sant'Elena, 第2巻(イタリア語版), P 48」より抜粋
順調にエジプト遠征の準備を進めていたボナパルトだったが、パリから出発しようとした4月28日までに状況を静観せざるを得ない事件が勃発したことを知った。
4月13日、1798年1月に駐ウィーン大使に任命されたベルナドット将軍がフランス公使館にフランス国旗を掲げたことを契機としてウィーンの住民達がフランス大使館を取り囲み、窓ガラスを割るなどの抗議を行なった。
当時のウィーンでは反フランスの気運が高まっており、イタリア戦役での敗北の鬱憤をフランスと名の付くものに八つ当たりをすることで晴らしていた。
これに対してフェンシングの達人であるベルナドットはウィーンの住民達を追い散らすために大使館から出てサーベルを抜いて威圧したのである。
逆上したウィーンの住民達は掲げられたフランス国旗を燃やし、大使館に踏み込もうとまでした。
この騒動はオーストリア警備部隊の到着によって沈静化され、2日後の4月15日にベルナドットはウィーンを去ることを余儀なくされた。
そして非はウィーンの住民にあるにも関わらず、ベルナドットがサーベルを抜いて威圧したことのみが取り上げられ、オーストリア帝国宰相トゥーグトが「大使の態度が戦争を再燃させる可能性が高い。」と宣言したことによりフランスとオーストリアは再び戦争に突入するかに見え、イギリスを含む周辺各国はその動静を見守った。
フランス政府はこの事件を発端とする戦争を未然に防ぐために、もしオーストリアとの交渉が必要な場合、ボナパルト将軍にラシュタットへ向かうよう要請した。
そのためボナパルトはトゥーロンへの出発を延期してパリに留まり、マルセイユ船団に出したトゥーロンへの出航を一時停止させた。
そしてチヴィタヴェッキアにドゼー師団の四分の一を残し、四分の三をウィーンでの事件の対応のためにイタリア方面軍の支援に向かわせた。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)
・その他
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