ナポレオンのワンにゃんエピソード集 

「独裁者は犬好きで猫嫌いが多い」という俗説があり、その独裁者の中には「ナポレオン」も含まれています。

ですが、ナポレオンと犬や猫に関するエピソードを集めてみるとそうでないことが浮き彫りになってきます。

本記事はナポレオンと犬猫のエピソード集です。

ナポレオンが「犬猫に関してテンプレ的な独裁者像の人物」だったか確かめたい方、歴史好き、ナポレオン好きな方はぜひご覧ください。

ナポレオンと戦場の犬のエピソード

ラス・カーズ伯爵の回想録に第一次イタリア遠征中の第一次バッサーノの戦い後のナポレオンと一匹の犬のエピソードが記載されています。

ナポレオン:「私たちは美しい月夜の深い孤独の中、1人でいました。

突然、一匹の犬が死体(恐らくオーストリア兵の死体)のマントの下から飛び出しました。

彼は私たちに向かって走ってきましたが、その直後に、哀れに吠えながら死んだ主人のところへ走って戻ってきました。

彼は兵士の無感情な顔をなめ、それから私たちのところに走って戻ってきました。これを数回繰り返しました。

彼は助けと復讐の両方を求めていました。

それがその瞬間の気分なのか、場所なのか、時間なのか、あるいは行為そのものなのか、あるいは何なのかはわかりませんが、いずれにせよ他の戦場で見たものの中にもこれほど私に感動をもたらしたものはありませんでした。

私は思わず立ち止まってこの光景を見つめました。

この男(死体の男)にはおそらく友達がいるだろう、と私は自分に言い聞かせました。

彼はキャンプや仲間内にいくつか持っているかもしれないが、ここでは犬以外の誰からも見捨てられて横たわっています。

自然が動物を通して私たちに教えてくれたことは驚くべきことです。

人間とは何と不思議なことだろう! 人間の感性の働きはなんと神秘的だろう!

私は全軍の運命を決める戦いで指揮を執ったことがありましたが、何の感情も湧き起りませんでした。

私は、自軍の多くの兵の命が犠牲になるであろう作戦を実行し見てきましたが、私の目は乾いたままでした。

そして悲しみで吠える犬に、突然、私の心は揺さぶられ涙があふれ出てきたのです!」

このエピソードはナポレオンは犬好きだったと勘違いされそうなエピソードですが、ナポレオンが言いたいのは「だから私は犬が好き」ではなく、「戦場で大きく心を動かされたこと」です。

文中では「動物」という言葉を使っており、犬でなくても良かったのです。

ナポレオンとフォルトゥネとのエピソード

※フォルトゥネの肖像

ナポレオンはジョゼフィーヌが飼っている犬「フォルトゥネ」が嫌いでした。

ことあるごとにこの犬はナポレオンを威嚇し噛みつきました。

ある時、フォルトゥネが料理人の犬にかみ殺され、ナポレオンは陰でほくそ笑みました。

しかしジョゼフィーヌが再び同じ犬種の犬「フォックス」を飼い始め、ナポレオンは忌々しく思っていました。

しばらく後、料理人と偶然会った際、料理人の犬がもう庭に放たれていないこと知ったナポレオンは、「その犬を安心して走らせてください。おそらく彼は私のためにもう一つのもの(フォックスのこと)も処分してくれるでしょう。」と語ったと言われています。

参照:モンテベッロでのフォルトゥネの死

このエピソードを元とした「ナポレオンは犬が嫌いだった」という説がありますが、ナポレオンは犬が嫌いだったのではなく「フォルトゥネが嫌い」でした。

もし本当に犬が嫌いであれば料理人が飼っているマスティフを庭で遊ばせるよう言うことはなかったでしょう。

マリー・ルイーズの愛犬ゾゾ

※マリー・ルイーズとゾゾ

1810年2月頃、オーストリア皇女マリー・ルイーズがナポレオンと結婚すると決まった後、マリー・ルイーズは英国大使から子犬を贈られました。

この子犬は長毛のスパニエルであり「ゾゾ(Zozo)」と呼ばれました。

マリー・ルイーズは3月13日にウィーンを出発し、14日にはエンス(Enns)に、15日にはリート(Ried)に、16日にはブラウナウ(Braunau)に到着し、そこで「引き渡し」の儀式が行われました。

18日にブラウナウを出発してその日の内にミュンヘン(München)に到着し、19日にウルム(Ulm)に、20日にシュトゥットガルト(Stuttgart)に、21日にライン川のほとりにあるカールスルーエ(Karlsruhe)に、22日にライン川を渡ってストラスブール(Strasbourg)に到着し、新たな皇后のフランス領への入国に関するいくつかの式典が2日間かけて催され、ナポレオンとマリー・ルイーズ結婚が祝われました。

一行はさらに24日にストラスブールを出発して夕方にはリュネヴィル(Lunéville)に到着し、25日にはナンシー(Nancy)に、26日にはヴィトリー・ル・フランソワ(Vitry-le-François)に到着しました。

そして最終的にナポレオンが待つコンピエーニュ城に到着する予定でしたが、ナポレオンは待ちきれず、27日正午にコンピエーニュ城を飛び出しマリー・ルイーズ一行を迎えに行ったと言われています。

ゾゾも主人のおよそ1,200㎞にもおよぶ旅に同行しており、ナポレオンはマリー・ルイーズとともに迎え入れました。

その後もゾゾはマリー・ルイーズの側で寄り添い続けました。

犬の忠誠心と猫の忠誠心

「ナポレオンは犬が好きで猫が嫌いだった」と一般には広まっているのは、恐らく次のエピソードが元なのではないかと考えられます。

ナポレオンがエルバ島に封じられたとき、これからも忠実であり続けるだろうと思っていたフランス廷臣の大半はナポレオンを見捨てました。

1815年、エルバ島から脱出する際、ナポレオンは海の荒波により船外に投げ出されてしまいました。

ナポレオンは泳ぎが得意ではなく、軍服と鉄剣の重さで浮くことさえ難しく、溺れかけました。

そこへ一匹の犬が海に飛び込み救助が来るまでナポレオンが水面に浮かぶのを助け、その後ナポレオンは向きを変えた船に拾い上げられました。

エルバ島を脱出した後、ナポレオンは自分を見捨てた廷臣たちに次のように語りました。

「忠誠心には二種類あり、犬の忠誠心と猫の忠誠心である。紳士諸君、君たちは決して家から出ない猫のような忠実さを持っている。」

このようなエピソードがあるため時間の経過とともに尾ひれを付けて「ナポレオンは犬好きで猫嫌いである」との俗説が広まったのでしょう。

このエピソードはあくまでも犬に助けられたということを思い出し、一般的な犬と猫のイメージを例に挙げて見捨てた廷臣を諫めたのであり、ナポレオンが犬好きで猫嫌いであることを証明するものではありません。

そもそも「犬に助けられた話」と「犬の忠誠心と猫の忠誠心の話」はワンセットではなく、別々のエピソードをそれらしくくっつけた可能性もあり、このエピソードのみで「ナポレオンは犬好きで猫嫌いだった」と断定することはできません。

「犬は忠実を好む」という思想

ナポレオンはかつて次のように言っています。

「もしあなたが犬を好まないなら、あなたは忠実を好まない。そしてあなたは自分になついている人々を好まない。したがって、あなたは忠実ではない。」

犬のイメージを利用して三段論法的に、その人の忠誠心を疑っている内容です。

これはナポレオンが(もしくは一般的に)「犬は忠実な動物だと思っている(思われている)」ということを示していますが、ナポレオンは犬好きであるということを示しているわけではありません。

このエピソードもナポレオンは犬好きであると勘違いされるエピソードの1つです。

「犬は忠実である。もしナポレオンが忠実を好むのであれば、ナポレオンは犬を好む。」という三段論法的な解釈が成り立つからです。

ベルトラン大元帥の犬「サンボ」

エルバ島だけでなく、セントヘレナ島にもナポレオンについて行ったベルトラン(Henri-Gatien Bertrand)大元帥はセントヘレナに住むポリー・メイソン(Polly Mason)から一匹の犬をもらいました。

黒ぶちの白黒の犬で、サンボとよばれていました。

耳は無く、まるでアザラシのようだったと言われています。

ポリーはベルトラン夫人の元を訪れる許可を貰っており、セントヘレナ島の地主であるメイソン家の女性でした。

ナポレオンと20歳以上離れているポリーはナポレオンと会うといつも深々とお辞儀をし、時々ナポレオンと2人で出かけることもありました。

サンボはグルゴー将軍がねずみ狩りに連れて行く時以外、ベルトラン家におり、ナポレオンはサンボとよく散歩に出かけて行ったと言われています。

1821年5月にナポレオンが死亡したおよそ5か月後、ベルトランは、恩赦によりルイ18世への反逆罪での死刑判決が消滅し、パリに戻りました。

その後、ベルトランはシャトールー(Châteauroux)の実家にサンボを連れて移り住んだと言われています。

このエピソードの一次資料は発見できませんでしたが、「ポリー・メイソン」は実在し、未確認ですがサンボと思われる犬が「ベルトラン博物館(Musée Bertrand)」に展示されているらしいことから、このエピソードは真実である可能性が高いのではないかと考えられます。

山猫の襲撃

ナポレオンが猫を恐れた理由として広く知られているエピソードは、幼児のときに山猫に襲われた出来事です。

※日本ではほとんど知られていません。

「ナポレオンが生まれて6ヵ月頃のある朝、ナポレオンの世話をしていたベビーシッターは日光浴をするためにナポレオンを庭に連れ出しました。

ですがベビーシッターは忘れ物を取りに行くために生後6ヶ月の赤子を少しの間くらい放っておいても大丈夫だろうと考えて家に戻りました。

突然そこへ山猫が現れて幼いナポレオンは襲われそうになりましたが、ベビーシッターが寸でのところでナポレオンの元に来て追い払ったため、ナポレオンは怪我を負うことがありませんでした。」

このエピソードは恐らく作り話でしょう。

まずナポレオンが誕生したのは8月15日、その6ヵ月後というと2月頃となります。

2月のコルシカ島アジャクシオの朝はおおよそ5~15℃ほどであり、雪が降ることもある寒い時期です。

しかも地球温暖化前なのでもっと寒かった可能性もあります。

そのような時期に生後6ヶ月の赤子を1人で放置することは考えられません。

次に山猫についてですが、そもそも山猫は「薄明薄暮性」であり、山猫が最も活動的なのは夕暮れと明け方です。

さらに野生の山猫は人間を避ける習性があります。

そのため日光浴ができるような朝の時間帯に人間がいる家の庭で狩りをする可能性は非常に低いと考えられます。

そして、このエピソードの情報源は不明です。

ナポレオンによる猫の利用

1798年ナポレオンはエジプト遠征を開始します。

当初は順調に進軍をしていましたが、1799年3月、ヤッファを奪取した際、ペストが流行しナポレオン軍に大きな損害を与えました。

ナポレオンはペストを連れてくるネズミの侵入を防ごうと多くの猫を連れてきて野営地で飼ったと言われています。

このエピソードはナポレオンは猫嫌いであることを否定しています。

マルメゾン城の猫たち

1799年4月にナポレオンの妻ジョゼフィーヌがマルメゾン城を購入して暫く後、ジョゼフィーヌは珍しい花や動物を集め始めました。

その中には数匹の様々な種類の猫たちも含まれていました。

この頃のジョゼフィーヌはナポレオンを愛するようになっており、ナポレオンもこの城によく足を運んでいました。

猫たちは日向で寝そべったり、毛づくろいをしたり、ジョゼフィーヌの愛情を求める以上のことをしているのをほとんど見たことがなく、ナポレオンはいつも何かをするのに忙しく、余暇にはまったく興味が無かったため猫たちに構う時間は無かったと言われています。

このエピソードで注目すべきは、ナポレオンが足を運ぶ城にジョゼフィーヌが猫たちを飼っていたという点です。

もしナポレオンが本当に猫嫌いならこの城に近づくことは無いでしょうし、ジョゼフィーヌも猫は飼わないでしょう。

※マルメゾン城は、エジプト遠征でナポレオンが第一次イタリア遠征の時にように多くの金を持って帰ってくるだろうと考えてジョゼフィーヌがナポレオンのために購入した城です。

しかしナポレオンはエジプト遠征から逃げるように帰って来て任務放棄で逮捕されるかもしれない状況でした。

そのためナポレオンは勝手に多額の金を使って当時は荒れ果てていたマルメゾン城購入したことに激怒したと言われています。

皇帝ナポレオンと猫の戦い

「Chambers's Journal of Popular Literature, Science and Arts, 第17巻」(1852)とCarl Van Vechten著「The Tiger in the House.Ailurophobes and Other Cat-Haters.Chapter Three.」(1922)に次のような記述があります。

「ヴァグラムの戦いとフランス軍による二度目のウィーン占領から間もなく、当時ナポレオンはシェーンブルン宮殿に滞在しスイートルームで就寝しようとしていた。

ナポレオンの副官が珍しく遅い時間にナポレオンの寝室のドアの前を通りかかったとき、非常に奇妙な騒音に驚き、皇帝から繰り返し助けを求められた。

急いでドアを開け、部屋に駆け込むと、特異な光景が現れた。

当時の偉大な兵士(ナポレオンのこと)が、半分服を脱ぎ、表情を動揺させ、額に玉のような汗の滴をたたらせ、手には剣を持っていた。

彼は壁に並んだタペストリー越しに、目に見えない敵に向かって頻繁にけいれんを起こしながら突進していた。

この場所に身を隠していたのは猫だった。」

※このエピソードは資料によって時間と場所を変えて伝わっているようです。ウィーン占領は1809年の出来事です。

Carl Van Vechtenの著作は「Chambers's Journal of Popular Literature, Science and Arts, 第17巻」(1852)を元としているのではないかと考えられますが一次資料ではなく、元となる一次資料は今のところ発見されていません。

これらは英語資料しかなく、フランス語資料からの誤訳や何らかの勘違い、もしくは陰謀によるものでないかと考えられるため、このエピソードは実際にあったことかどうか非常に疑わしいものです。

1852年に即位したフランス皇帝ナポレオン3世が「猫が部屋に入ってきたら家具の上に飛び上がり、猫を追い出すまで降りてこなかった」と言われるほど大の猫恐怖症だったため、混同されたのでしょう。

当時のヨーロッパでは犬は恐ろしくて男性的、猫は柔らかく女性的な生き物として描かれる傾向がありました。

もしかしたらナポレオン3世の猫恐怖症を揶揄しつつナポレオン1世も猫恐怖症だったということにしたかったフランスの敵国であるイギリスがこのようなデマを広めたため英語資料しかない可能性もあるでしょう。

ナポレオンと黒猫の迷信

このエピソードには歴史的な根拠がありませんが、迷信を信じるナポレオンと黒猫のエピソードを紹介します。

ヨーロッパで黒猫は中世頃から不吉なものであると考えられてきており、特にフランスでは黒猫が横切るのを見ると不幸が訪れるという迷信が語り継がれてきました。

ナポレオンもこの迷信を信じていたそうです。

1815年6月18日に行なわれたワーテルローの戦いの直前、「ナポレオンは戦場を横切る黒猫を見た」と言われています。

そしてナポレオンに不幸が訪れ、敗北してしまいました。

恐らくこのエピソードには「黒猫はフランスでは不幸の予兆だが、イギリスでは幸運の予兆である」こと、そして「ナポレオンが迷信を信じる人」であることから、ワーテルローの戦いでイギリスが勝利しフランスが敗北した理由を面白おかしく説明するためにこのような話が作られたのだろうと考えられます。

ワーテルローの戦いに関する様々な信用できないエピソードの中には、当時死亡しているはずの海将ネルソンが連合陸軍総司令官として70匹の猫をワーテルローの戦場に放ちナポレオンは固まって何もできずに敗北したというものもありますがこれらの情報源は不明であり、すべて作り話です。

セントヘレナ島でのナポレオンの飼い猫「ベン」

情報源が不明な噂によると、ナポレオンはセントヘレナ島に流された数年後、「ベン」という猫を飼い始めたそうです。

1816年末にはラス・カーズ伯爵が、1818年にはモントロン(Montholon)侯爵と対立したグルゴー将軍がナポレオンの元を去り、ナポレオンの住むロングウッドは徐々に寂しくなっていきました。

当時ナポレオンは羊や数頭の馬を飼っていましたが、その他に寂しさを紛らわせるために猫を飼い始めました。

その猫はナポレオンが心から尊敬し、士官だった頃に忠告の手紙を送ってきたアメリカの将軍に因んで「ベン」と名付けられました。

ナポレオンはこの猫とよく一緒の時間を過ごしたと言われています。

もしこのエピソードが真実なら、ナポレオンが「猫嫌い」ではなかった決定的な証拠となるでしょう。

ですがナポレオンが無名の士官時代に手紙を送ってくるようなアメリカの将軍がいる可能性は非常に低いことから、このエピソードの一部もしくはすべてが創作である可能性が高いでしょう。

ナポレオン法典での犬や猫の扱い

1804年に公布したフランス民法典(ナポレオン法典)の第528条では、猫、犬、およびその他の同じ目の動物は「動産」として定められています。

もしナポレオンが本当に犬好き猫嫌いなら、ナポレオン法典に何らかの差を設ける可能性がありますが、ナポレオン法典では猫と犬に差はありません。

 

これまでのところナポレオンが犬好きで猫嫌いだったことに関する信頼できる一次資料は見当たっていません。

それどころか、ナポレオンはジョゼフィーヌの愛犬「フォルトゥネ」や「フォックス」を毛嫌いし、エジプト遠征ではペスト対策のため野営地で猫を飼うなど「犬好きの猫嫌い」とは反対のエピソードが見受けられます。

尚且つ、ナポレオン自身が制定した「ナポレオン法典」には犬と猫が平等に動産として定められています。