マルタ戦役 06:聖ヨハネ騎士団領マルタの降伏 
Surrender of Malta

マルタ人からの聖ヨハネ騎士団総長への歎願と降伏の決定

 1798年6月10日の戦いの最中、数人の聖ヨハネ騎士の裏切りによってフランス軍に上陸を許してしまったことを知ったマルタ人達は聖ヨハネ騎士団に不信感を抱き、疑わしい騎士の吊るし上げを行って数人の騎士を殺害した。

 同日夕方、マルタ軍はヴァレッタ要塞群内に封じ込められ、完全に包囲されていた。

 聖ヨハネ騎士団にとって外にはヴァレッタを包囲するフランス軍、内には騎士を吊るし上げるマルタ人と内憂外患の状態となっていた。

 マルタ人にとってもそれは同じであり、外にはヴァレッタを包囲するフランス軍、内には裏切りの聖ヨハネ騎士団がいた。

 ヴァレッタのマルタ人達はこの状況において最善の選択をするために行政関係の集中するジュラターレ宮殿(Banca Giuratale)に有識者を集め会議を開いた。

※"Banca"は銀行という意味だが、銀行というよりも行政の建物なので宮殿と翻訳している。宮殿は"Palazzo"である。

 数多くの議論が為された後、徹底抗戦すべきであるという者もいたが少数であり、多くの者がフランス軍への降伏に賛成した。

 夜0時頃、マルタ人の代表者は降伏を求める嘆願書を聖ヨハネ騎士団総長ホンペシュに提出した。

 その際、騎士団から裏切り者が出ており、命令は実行されず、防衛計画は破綻し、食料、兵糧、増援はすべて阻止され、そのためマルタ人は騎士団に不信感を抱いていることを伝え、速やかな降伏の決定を求めた。

 しかしホンペシュは戦うつもりであり、マルタ人達からの嘆願を拒否した。

 その後、すぐに2人目の議員が現れ、要求が受け入れられなければ自らボナパルトと交渉を開始し、何の要求も無しに街の降伏を伝えると告げた。

 この最後の脅迫を警戒したホンペシュはマルタ人の要求を審議するよう評議会を招集し、その真夜中に騎士団の高官たちが宮殿内に集まり、この問題についての議論を始めた。

 議論が進み、様々な意見が提案されている間に議場の前で騒ぎがあり、議論は中断された。

 その直後にサン・アンジェロ要塞に投獄されていたはずの騎士ランシジャットを担ぎあげた暴徒の一団がなだれ込んできた。

 ランシジャットは議場に入ると騎士団を脱退すると宣言し、フランス軍へ即時降伏することを告げた。

 ホンペシュと騎士団幹部達は自分たちに何の話も無くマルタ人たちが勝手に降伏することを警戒し、降伏の前段階として停戦を要求することを即座に決定した。

 これらのことが決定されている間、フロリアーナ要塞線ではフランス人騎士が同じく騎士である弟とともにマルタ人の吊るし上げから逃れて投降するために、手持ちランプを合図としてボンブ門からフランス軍を引き入れようとし、これに気付いた部下のマルタ人伍長は上司であるフランス人騎士を殺害して応援を呼び、夜明け前まで続けられた戦闘の末、フランス軍を撃退したという出来事があった。

24時間の停戦協定の締結

 停戦を求める特使が出発するとすぐにホンペシュから各拠点に発砲を中止するよう命令が送られ、間もなく静寂が町中に広がった。

 静寂の中、遠くから聞こえるマルサシュロックのローハン要塞の大砲の音だけが鳴り響いていた。

 騎士ド・ラ・ゲリヴィエールが指揮するローハン要塞は完全に包囲され孤立していたが積極的な抵抗を続けていた。

 守備隊は1日中食料や弾薬の供給無しに戦っていたが、暫く後、遂に弾薬を使い果たし、武器を持ってコットネラ要塞線に行くことを条件に降伏した。

 ホンペシュが派遣した特使がボナパルトの元に到着して降伏の用意があり一時的な停戦を求めていることを告げると、ボナパルトは話し合うために自身の副官であるジュノー少将、エジプトの地質学を研究する目的で遠征に同行していたドロミエール(Dolomière)という名の騎士、そして軍の金庫の管理者プシエルグ(M. Poussiélgue)を派遣した。

 ジュノーは終始高圧的な態度で接し、総長ホンペシュと評議会との短いやり取りで「6月11日午後6時から6月12日午後6時までの24時間、停戦を行うこと」、「オリエント号に特使を派遣し、24時間で降伏条件を決定すること」が決定され、書類を作成して署名を行った。

ナポレオンのヴァレッタへの上陸と降伏文書への署名

1798年6月12日、ヴァレッタに上陸するナポレオン

※1798年6月12日、ヴァレッタに上陸するナポレオン。中央のボートの先頭にナポレオンが乗っているのが分かる。

 6月12日、ボナパルトはヴァレッタに上陸して町に入り、城の近くに住むマルタ貴族パオロ・パリシオ・ムスカティ(Paolo Parisio Muscati)男爵の邸宅であるパリシオ宮殿(Palais Parisio)に滞在することを決め、本拠地を置いた。

※現在、パリシオ宮殿はマルタ共和国の外務省が使用している。

ヴァレッタに入城したナポレオン

※ヴァレッタに入城したナポレオン

 ボナパルトがヴァレッタの巨大な要塞の中に入り、強固な防衛線が続く光景を目の当たりにしたとき、思わず「私たちの中に門を開けてくれる友人がいてくれてよかった。」とつぶやいたと言われている。

 もし聖ヨハネ騎士団とマルタ人が一丸となってフランス軍に対抗していたら、上陸はスムーズには進まず、ヴァレッタ要塞の包囲中にフランス艦隊がネルソン戦隊に襲われ、エジプトに到達する前にエジプト遠征は失敗に終わっていたかもしれない。

 同日、協議を行ない、「聖ヨハネ騎士団のマルタの領有権と財産の放棄」、「住民の特権と財産の保全」、「宗教の自由」などが決められ、条約が締結された。

 この条約の署名欄にはホンペシュの名前は無く、ランシジャットの名前が記されている。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Whitworth Porter著「A History of the Fortress of Malta」(1858)

・Whitworth Porter著「History of the Knights of Malta or the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem,第2巻」(1858)

・Vincenzo Busuttil著「A Summary of the History of Malta : Containing an Abridged History of the order of ST.John of Jerusalem from it's foundation to it's establishment in Malta」(1894)

・その他