マルタ戦役 04:ナポレオンのマルタ島上陸計画とマルタの内情
Preparing for landing on Malta
※1798年マルタ島防衛施設全体像。記載されていないが、要塞や塔の周辺には小砦や砲台、塹壕などがある。
マルタ島占領計画
※1798年6月9日、マルタ島におけるフランス軍各師団の上陸予定範囲。
主島であるマルタ島は周囲に監視塔が建てられており、その南側は切り立った崖が多く上陸は困難だった。
1798年6月9日、ボナパルトはマルタ島とゴゾの重要地点を勢力下に置きつつマルタ島東の港町マルサシュロックと北岸側から上陸して難攻不落であるヴァレッタ周辺の要塞群を包囲し、同時にマルタ島とゴゾ島全土を占領する計画を立案し、各師団長に命じた。
バラグアイ・ディリエール将軍率いるジェノヴァ船団の計画
バラグアイ・ディリエール将軍率いるジェノヴァ船団はフリゲート艦「シリウーズ(Sérieuse)」の周辺に集結し、マルタ島北岸の西部に位置するサリーナ湾(Salina Bay)、セント・ポールズ・ベイ(Saint Pawl's Bay)、メリーハ湾(Mellecha Bay)のいずれかから上陸し、安全な退路を確保しつつマルタ島の水と飼料の確保を行なう。
その後、西部地域を勢力下に置きつつイムディーナ要塞へ向かいこれを占領する。
ヴォーボワ将軍率いるアジャクシオ船団の計画
ヴォーボワ将軍はヴァレッタの西にあるサン・ジュリアン岬からマダレーナッ湾(Madalena Bay)の間から上陸する。
マルモン旅団が先行し、その後にランヌ旅団が続き、師団全体の上陸を妨げる可能性のある砲台を占領する。
その後、マルモン旅団はスピノラ(Spinola)庭園に向かい、後続の部隊が到着した後、コルミ(Ħal Qormi)に行き、ヴァレッタの西を防御するティニエ要塞とマノエル要塞、南側を防御するフロリアーナ要塞線を包囲してこれを攻撃する。
そしてラアル・ドディド(Raħal Ġdid)まで部隊を延ばしてドゼー師団左翼との連絡線を繋ぐ。
ランヌ旅団は上陸地点から西進して沿岸の塔や要塞を占領しつつバラグアイ・ディリエール師団との連絡線を繋ぎ、ガールグール(Għargħur)村を占領して上陸軍総司令部を設置する。
そしてヴォーボワ将軍は分遣隊を組織してリーヤ(Lija)とアタード(Attard)を占領させ、イムディーナ要塞へ派遣してこれを占領する。
ドゼー将軍率いるチヴィタヴェッキア船団の計画
ドゼー将軍はマルタ島東側のセント・トーマス湾からマルサシュロック南の断崖までの間から上陸し、すぐに水と飼料の調達を行う。
上陸の際、海軍所属のシャイラ(Chayla)将軍が4隻の軍艦を率いて、マルサシュロック沖から1リーグ(1 lieue = 4 km)離れた海域に停泊し、上陸を支援する。
マルタ島東部を勢力下に置きつつ右翼はザバール(Zabbar)、ゼイトゥン(Zeitun)を通り、左翼はグディア(Gudia)、タルシェン(Tarxien)を通ってヴァレッタの東を防御するリカソーリ要塞(Fort Ricasoli)とコットネラ要塞線(Cottonera Lines)を包囲しこれを占領する。
そして左翼はラアル・ドディドのヴォーボワ師団右翼と連絡線を繋ぐ。
クレベール将軍率いるトゥーロン船団の計画
旗艦「オリエント」とともにいるクレベール将軍率いるトゥーロン船団はグランドハーバーとマルサムシェット港を封鎖し、ヴァレッタ要塞群への攻撃を行ない、これを占領する。
レイニエ将軍率いるマルセイユ船団によるゴゾ島占領計画
※1798年6月9日、ゴゾ島におけるレイニエ師団の上陸予定範囲。
レイニエ将軍率いるマルセイユ船団はフリゲート艦「アルセステ(Alceste)」の周辺に集結し、ラムラ湾からアイン・リアーナ湾(Aaïn Rihanna Bay)の間で上陸し、すぐに水と飼料、食糧の調達を行う。
その後レイニエ将軍はシャンブレー要塞と漁港のあるガインシレムやゴゾ島の主港のあるマルサルフォーンに部隊を派遣し、主力でラバトにあるチッタデッラ要塞を占領する。
※ゴゾ島の主港は当初マルサルフォーンだったが、1841年以降ガインシレムのマシャール港が開発され始めてから徐々にガインシレムが重要な港町となっていった。
ナポレオンはマルタ島に上陸するバラグアイ・ディリエール師団、ヴォーボワ師団、ドゼー師団にはパンを供給し、ゴゾ島に上陸するレイニエ師団には現地調達を行なわせている。
恐らくナポレオンは、マルタ島の方が重要であり、尚且つマルタ島の支配は難しくゴゾ島の支配は容易であると思っていたのだろう。
これら命令の際、ボナパルトは(恐らく馬の不足と騎兵の温存のために)騎兵を上陸させないよう各師団に指示を出した。
マルタの防衛計画と内情
マルタ軍は聖ヨハネ騎士団が統率し、兵力は総計6,900人でありその半数が民兵だった。
約7,000人の兵力ではマルタ島沿岸全域を防衛することはできないと考えられたため、主要な地域を重点的に防御するよう計画された。
マルタ軍の戦略は、第一段階として沿岸の塔や要塞、小砦、砲台の周囲に塹壕を掘って沿岸部で強く抵抗し、第二段階として沿岸部の防衛施設を放棄してヴァレッタでフランス軍と対抗するというものだった。
首都ヴァレッタには上下水道が完備されており、食糧や物資を持ってヴァレッタに立て籠もれば数ヵ月は持ち堪えることができると考えられた。
しかし聖ヨハネ騎士団と地元民兵の間には軋轢があり、フランス人騎士が多い騎士団内部ではフランスに降伏すべきだという声が多く、裏切りや命令拒否が多発していた。
しかも騎士団幹部の中には騎士であるにも関わらず軍事に疎い者もおり、信頼できる者は僅かだった。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Whitworth Porter著「A History of the Fortress of Malta」(1858)
・Whitworth Porter著「History of the Knights of Malta or the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem,第2巻」(1858)
・Vincenzo Busuttil著「A Summary of the History of Malta : Containing an Abridged History of the order of ST.John of Jerusalem from it's foundation to it's establishment in Malta」(1894)
・その他