サリセッティの裏切りとナポレオンの逮捕

本記事ではフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトに関する1794年8月にナポレオンが国家反逆の嫌疑をかけられて逮捕、釈放されるまでの経緯を記載しています。

ナポレオンはこの期間中、アンティーブにあるカッレ砦(Fort Carre)に勾留されてしまいました。


コンソラータ要塞包囲作戦の始まりとナポレオンへの嫌疑

1794年7月末にデモンテにあるコンソラータ要塞の占領を目標とした軍事作戦が始まりました。

イタリア方面軍は7月29日にオーストリア・ピエモンテ軍を平野の入り口に追いやり、コンソラータ要塞の包囲に向けて順調に戦局を進めていました。

しかし、テルミドール9日のクーデターで権力を握った反ロベスピエール派(テルミドール派)はロベスピエールの支持者を一掃しようとし、 オーギュスタン・ロベスピエールと親しく、「ボーケールの晩餐」の著者であるナポレオンに嫌疑をかけました。

 その際、サリセッティが公安委員会に、「ボナパルトはオーギュスタン・ロベスピエールとともに主導的役割を担っており、私達は彼らの立案した計画に従わなければならなかった。」という内容の書簡を送り、保身を図りました。


ナポレオンの逮捕とコンソラータ要塞包囲作戦の中止

1794年8月9日、ナポレオンは遂にアルビッテ(Antoine Louis Albitte)とサリセッティにより逮捕され、ナポレオンが所持している書類も証拠として押収されてしまいました。

同郷であり、コルシカ島ではともにパオリと戦い、家族の知人でもあり、そしてトゥーロン攻囲戦でもともに戦ったサリセッティに裏切られたのはナポレオンにとって特にショックな出来事だったでしょう。

サリセッティは自分が疑われないようナポレオンを生贄としたのでした。

もしかしたら派遣議員にもかかわらずナポレオンのようにグループ内で主導的役割を担えないことへの不満があったのかもしれません。

そしてナポレオンは逮捕された後、家族のいるアンティーブのカッレ砦(Fort Carré)に移送されました。

ナポレオンがいなくなったことによりデュメルビオン将軍がコンソラータ要塞包囲作戦の総指揮を執りましたが、痛風により地図上でしか作戦を考えることができませんでした。

そのため作戦に支障が生じ、8月13日に作戦は一時中断され、その後正式に作戦の中止が発表されました。

マッセナ師団は占領した地域を保持していましたが、正面のオーストリア軍がデゴとカイロ・モンテノッテに約15,000の兵力を集結させようとしていること、後方でコルシカ島を手に入れたフッド提督率いるイギリス海軍がオネリアへの上陸作戦を行おうとしているという情報を入手したことにより、8月21日夜から22日未明にかけて悪天候の中での後退を余儀なくされました。

結局、イタリア方面軍は元の位置に戻らざるを得ませんでした。

一方、ナポレオンは国家反逆罪の嫌疑をかけられ勾留されていました。

8月20日、裁判所はナポレオンを一時的に釈放し、イタリア方面軍に戻るよう命じました。

10日間の勾留生活中、副官のジュノー中尉はカッレ砦に赴きナポレオンに脱走を提案しました。

このままではロベスピエール派と決めつけられて断頭台に送られてしまうと心配したのです。

ですがナポレオンは首を縦に振りませんでした。

「辛抱強くあるべきだ。私は無実であり、無実は中傷に勝る」と言いジュノーの提案を拒否したと言われています。

その後もナポレオンはギロチン送りの心配をすることなくオーストリア継承戦争における1745年のピエモンテとの戦役について書かれている『Campaigns de Maillebois(マイユボワ元帥の戦役) 』(1775年出版)を読んでいたと言われています。

オーギュスタン・ロベスピエールとの親密な繋がり、「ボーケールの晩餐」の内容、サリセッティの告発が嫌疑の源でしたが、事情聴取や書類調査の結果、フランスに対する反逆の証拠は無く(一部の士官は嫉妬からかナポレオンに対して不利益な証言を行いました)、疑惑は払拭されました。