ナポレオンが身に着けていた幸運のお守り(タリスマン) 3選 

本記事ではナポレオンと関係性の深い「幸運のお守り」を紹介しています。

ナポレオンが所持していた「幸運のお守り」のエピソードを知りたい方はぜひご覧ください。

1、ナポレオン3世に受け継がれた「ナポレオンの印章」

※左:カーネリアン、右:印章


日本において最も有名と考えられるナポレオンの幸運のお守りは、「ナポレオンの印章」でしょう。

ナポレオンは印章の1つをカーネリアン(紅玉髄)で作成させており、そのため日本ではカーネリアンはナポレオンが身に着けていた石として知られています。

ナポレオンの印章は八角形であり、アラビア文字で「僕(しもべ)イブラーヒーム(アブラハム)は慈悲深き神に身を委ねる」と刻まれていたと言われています。

印章の作成と弟 ルイ・ボナパルトの証言

アラブ世界ではカーネリアンは身に着けると雄弁になり勇気をもたらすとされており、指導者に相応しい石として知られていました。

そしてアラビア語で聖なる言葉を刻むと護符となると言われており、イスラム教を創始した最後の預言者であるムハンマドもカーネリアンで印章を作らせ、右手の小指に着けていました。

恐らくナポレオンは、これらのことを知り、1798年~1799年のエジプト遠征時に入手したカーネリアンの印章を身に着けていたのでしょう。

ナポレオンの弟であるルイ・ボナパルトはエジプト遠征に参加しており、ナポレオンが両手でカーネリアンの印章を掲げ、肌身離さず身に付けていたと語っています。

養女オルタンスからナポレオン3世へ

ある日、ナポレオンはジョゼフィーヌの連れ子で自身の養女であるオルタンスにこの印章を与えました。

オルタンスはナポレオンに忠実であり続け、ナポレオンから信頼されていました。

そのためナポレオンはオルタンスにカーネリアンの印章を「幸運のお守り」として与えたのでしょう。

その後、この印章はオルタンスからルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)に相続されました。

ナポレオン3世はこの印章を護符として時計の鎖に付け、片時も手放すことがなかったと言われています。

ナポレオン3世から皇太子ナポレオン・ウジェーヌへ

そして1856年3月16日、テュイルリー宮殿でナポレオン3世の待望の跡継ぎであるナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルトが生まれました。

妻ウージェニーが2度の流産の後やっと授かった男子だったため、ナポレオン3世はナポレオン・ウジェーヌを溺愛しました。

そして、「息子よ、私が時計鎖につけて身に着けていたこの印章を護符としなさい。」とナポレオン・ウジェーヌに印章を与えました。

ナポレオン・ウジェーヌは父の言いつけのとおり、印章に紐を通してネックレスにして身につけたと言われています。

1870年7月19日、フランスが大敗北を喫する普仏戦争が勃発します。

フランス軍はセダンでヘルムート・フォン・モルトケ(大モルトケ)が指揮するプロイセン軍に完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は約10万の将兵とともに投降し捕虜となってしまいました。

ナポレオン・ウジェーヌは皇太子として2日間だけ表面上政務を取り仕切りましたが、9月4日にパリで民衆の暴動が起こりナポレオン3世の廃位が決議され、フランス第2帝政は終焉を迎えました。

ナポレオン・ウジェーヌは身の危険を感じ、9月6日にイギリスへと亡命しました。

この時ナポレオン・ウジェーヌは14歳でした。

ズールー戦争でのナポレオン・ウジェーヌの戦死と印章の喪失

イギリスではウーリッジ(Woolwich)砲兵学校に入学して好成績で卒業し、その後、軍に所属しました。

1879年1月11日、チェルムスフォード中将の率いるイギリス軍がズールー王国へ侵攻し、ズールー戦争が勃発しました。

ナポレオン・ウジェーヌは自分を受け入れてくれたイギリスへの恩返しとしてズールー戦争への参加を志願しました。

しかし第2次侵攻が始まった1879年6月1日、ナポレオン・ウジェーヌが23歳の時、配属された部隊の偵察任務の際、ズールー族の襲撃を受けて帰らぬ人となってしまいました。

父ナポレオン3世から託されたナポレオンの印章はズールー族によって奪われ、その後も奪還されることなく喪失したと言われています。


カーネリアンは加工しやすい石であり、現代でも「臆病な気持ちを退け、力強さと勇気を与えてくれる石」とされています。

もしあなたが一歩踏み出したいけど踏み出せなかったり、臆病さや後ろ向きな考えをを払拭したいと考えているのなら、カーネリアン製のアクセサリーやチャームはおすすめです。

2、ナポレオン薔薇十字勲章(Napoleon Rosicrucian Medal)

※ナポレオン薔薇十字勲章。

この勲章はナポレオンが秘密結社である薔薇十字団のメンバーであることを示しているのと同時に「幸運のお守り」として作成されました。

ナポレオン薔薇十字勲章には宝石の配置や数、デザインなどに「ナポレオンの暗号」や「薔薇十字団の暗号」、「タロット暗号」が隠されており、それらの暗号はナポレオンのものであること、所持者が薔薇十字団のメンバーであり神秘的な力で守られ幸運をもたらすよう考えられて作られていると言われています。

ナポレオンの降伏

1815年6月18日、ナポレオンは「ワーテルローの戦い」に敗北し、7月2日、フランス西部の海岸に位置する当時海軍都市だったロシュフォール(Rochefort)に到着しました。

ナポレオンはロシュフォールからアメリカに亡命することを望んでいました。

ロシュフォールの港には2隻のフランスのフリゲート艦、ブリッグとコルベット艦が停泊していましたが、すでにイギリス船によって封鎖されていました。

5月にはプリマス港を拠点としてヘンリー・ホーサム(Henry Hotham)少将の指揮する戦隊はフランス大西洋の港を封鎖する命令を受けており、「ナイルの海戦」や「トラファルガーの海戦」など多くの海戦を戦い抜いたアロガント級戦列艦ベレロフォン(Bellerophon)をロシュフォールの監視及び封鎖を目的として派遣していました。

ベレロフォンは最初1隻で監視及び封鎖任務を行っていましたが、7月初旬にナポレオンがロシュフォールにいるという情報を知るとさらに2隻が派遣されベレロフォンを強化しました。

ナポレオンはフランス暫定政府からフランスの地を離れるよう圧力をかけられおり、もし離れることを拒否した場合や離れるのが遅かった場合、プロイセンやオーストリアなどの大陸国、そしてブルボン王家に捕らえられる危険がありました。

7月10日、ナポレオンはサヴァリー(Anne Jean Marie René Savary)将軍とラス・カーズ(Las Cases)伯爵の2人の特使をベレロフォンに派遣し、艦長メイトランド(Maitland)と会い、ナポレオンのアメリカへの渡航を許可する可能性について話し合いました。

しかし、イギリス本国からナポレオンのアメリカへの渡航を阻止する命令が出ていたため、メイトランドはイギリスへの輸送を提案しました。

両者は数日間話し合いましたが、期限が迫ったナポレオンには選択肢はありませんでした。

7月13日、ナポレオンは遂にイギリスに降伏することを決定し、7月14日、メイトランドはナポレオンが翌朝にベレロフォンに赴いて降伏することを知らせる書簡を受け取りました。

7月15日の早朝、ナポレオンはブリッグ・エペルヴィエ(Brig Épervier)に乗船し、ベレロフォンに向かいました。

午前6時から7時の間、メイトランドは艀(はしけ)を用意してナポレオン一行を乗せ、ベレロフォンに付けました。

先にベルトラン(Henri Gatien Bertrand)将軍が乗船し、ナポレオンが後に続きました。

ナポレオンは王立海兵隊の注目を集めクォータデッキ(上甲板の船尾エリア)に歩いて行きました。

そしてメイトランドに脱帽し、フランス語で「貴国の王と法の保護を受けるために来ました。」と伝えました。

それに応えてメイトランドも頭を下げました。

ナポレオンはイギリスに降伏し、これによりナポレオン戦争は完全に終結しました。

ベレロフォンのナポレオン

その後、メイトランドは船内を案内し、ナポレオンが自由に使用できる船室を見せ、メイトランドの上官であるホサム中将と会食しました。

翌16日、ベレロフォンは大陸を離れ、イギリスに向かいました。

7月23日の早朝、ナポレオンが夜明けに現れました。

ナポレオンは士官候補生の付き添いとともに船尾甲板に登り、午前中、海岸線がゆっくりと視界から遠ざかるのを見て過ごしました。

ナポレオンの側近等も加わって海岸線を眺めていたと言われています。

ナポレオン達がデッキから眺めていたのは、フランス最後の地であるウシャント島(フランス語ではウェサン島)でした。

その後、イギリスはナポレオンを本土に受け入れず、大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島へ封じ込めることが決められました。

イギリス本土で静かに余生を過ごすことを望んでいたナポレオンはこの決定に失望したと言われています。

8月7日、ナポレオンはベレロフォンを去り、その後、ノーサンバーランドに乗船しセントヘレナ島に向けて出航しました。

1815年7月15日から8月7日までの24日間、ベレロフォンの乗組員達はナポレオン一行を見捨てることなく友好的に接し、ナポレオンもベレロフォンの乗組員達の親切ともてなしに感謝しました。

薔薇十字勲章の行方

ナポレオンがベレロフォンを去る際、ナポレオンは船のボースン(Bosun)であるマイケル・マニング(Michael Manning)に話しかけました。

※Bosunとは「船上の他の船員の業務を統制する下士官」

ナポレオンは自分の首から薔薇十字勲章を外し、それをマニングに渡して身に着けるよう言ったと言われています。

薔薇十字勲章はナポレオンの身の安全が決定されるまで身に着けていた「お守り」であり、1815年8月7日にその役目を終えたのでした。

ナポレオンはセントヘレナ島で一時的にブライアーズに住んでいたバルコム一家の近くで生活をしており、バルコム一家と親睦を深めました。

その後、ナポレオンは修復を終えたロングウッドハウスに引っ越しましたが、バルコム一家との友好関係は続きました。

ウィリアム・バルコムの10代の娘であるベッツィ・バルコムはナポレオンを「ボニー」と呼び、末っ子で5歳前後のアレクサンダー・バルコムはナポレオンの膝の上に乗り親しくしていたと言われています

1818年3月ウィリアム・バルコムは親しくしていたナポレオンのスパイと疑われ、突如セントヘレナ島からの退去命令が出され、イギリスに帰りました。

その後、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州の植民地財務官に任命され妻子とともにオーストラリアへ渡りました。

それから数十年の時が経ち、薔薇十字勲章はマニングの孫であるフランク・マッグス(Frank Maggs)に相続され、ウィリアム・バルコム(William Balcombe)の曽孫であり、その末っ子のアレクサンダー・バルコムの孫娘であるデイム・メイベル・バルコム・ブルックスに売却されました。

そのためナポレオン薔薇十字勲章はオーストラリアに渡ったのです。

そして2014年4月10日、オーストラリアのブライアーズ公園(Briars Park)の家屋敷で盗難され、それ以降、行方不明となりました。

3、ナポレオンのタリスマン

※ナポレオンのタリスマン

出典:Auction Company of America HPから配布されているG. Randall Jensen氏のレポート「The Talisman of Napoleon Bonaparte」


2022年9月5日午後12時43分にオークションが開始された「ナポレオンのタリスマン」は当時、注目されたと言われています。

ナポレオンが所持していたという記録やエピソードが無いこのタリスマンは、G. Randall Jensen氏によって研究され、内包される「暗号」を解読することによって確率論的にナポレオンのものであると推定されました。

非常にユニークなタリスマンであり、多くの謎を含んでいるお守りです。

タリスマンの発見と研究

2004 年、Glenn Randall Jensen氏がフリーマーケットサイトeBayを閲覧していたとき、第二次世界大戦開始の前年1938年にPieter E. Hegeman Ⅱ の父親がオランダで塹壕を掘っているときに見つけたという変わったお守りを発見しました。

興味を持ったJensen氏は、PINGのゴルフクラブセットを変わったお守りと交換し、お守りの起源を探るために独自の調査を開始しました。

Jensen氏は研究を進めて「タロット暗号」などに気付き、宝石の配列や数などからその一部を解読し、使われている銀の含有量などを調べて年代を推定し、ナポレオンのものであると確信しました。

これが絶対的にナポレオンのものであるとは言えませんが、Jensen氏のレポートによるとその可能性は高く、ナポレオンの物でなかったとしても謎が多いため興味は尽きません。

今後の研究に期待したいです。

参考資料

・「The Talisman of Napoleon Bonaparte」 G. Randall Jensen

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