【徹底解剖】セーブル製陶所の歴史 

本記事ではセーブル製陶所の歴史についてナポレオンの時代あたりまでを詳しく紹介しています。

国窯として安定した発展を遂げてきたように見えるセーブル製陶所ですが、実は倒産の危機や操業停止に合いながらも次々と当時最先端の発明を行い、技術と伝統を厳格に守りそれを発展させてきました。

「幻の窯」と呼ばれるセーブル製陶所の歴史を知りたい方はぜひご覧ください。

陶器と磁器の見分け方

お皿やコーヒーカップ、壺や花瓶などに使用されている陶磁器ですが、「陶器」と「磁器」に分けられます。

陶器と磁器の違いは、原材料である粘土のガラス成分(カオリン)が多いか少ないかと焼成温度が高いか低いかですが、何も知らない人がそれを聞かされても違いは分からないと思います。

たとえば、陶器のお皿と磁器のお皿が並んでいたとして、陶器か磁器かを見分けるコツは、皿の厚さ、指で弾いた時の音の高さ、光にかざした時に光が透けるかどうか、そして熱伝導の違いです。

他にも違いはありますが、わかりやすいのはこの4つです。

厚さについては、磁器は硬いため薄くできますが、陶器は柔らかいため厚くなります。

音については磁器はガラス成分を多く含んでおり硬いため指で弾くと金属質な高音が鳴り響きますが、陶器はガラス成分は少なく柔らかいため磁器と比べて鈍い音がします。

透光性については、それぞれの皿を光にかざすと、磁器は若干光を通しますが、陶器は全く光を通しません。

そして、熱伝導については、熱いお湯を入れた時、磁器は薄く熱伝導率が高いためすぐに熱くなりますが、陶器は磁器と比べて厚く熱伝導率が低いため緩やかに熱くなっていきます。

ヨーロッパにおける磁器

日本では「磁器」はガラス成分の多い「真正磁器」しか磁器ではありませんが、ヨーロッパでは「軟質磁器」と「硬質磁器」という区分があり、「真正磁器」=「硬質磁器」となります。

軟質磁器とは硬質磁器と比べて、より陶器に近いものになります。

焼成温度についても軟質磁器は1200℃前後なのに対し、硬質磁器は1200℃~1400℃で焼成しなければならないため、より高い技術力を必要とする焼成炉を使用しなければ焼けません。

陶器の焼成温度は800℃~1250℃と言われています。

およそナポレオンが生きていた時代以前のヨーロッパでは、陶器や軟質磁器が主流であり、高品質の硬質磁器はドイツのマイセンでしか製作することができませんでした。

そのため当時のヨーロッパではマイセン磁器、中国の青磁や日本の伊万里焼に強い憧れを抱いていたと言われています。

セーブル磁器の歴史①:前身であるヴァンセンヌ製陶所の立ち上げ

1738年、フランス東インド会社役員であり財務官だったオリー・ド・フルヴィ(Jean-Henri-Louis Orry de Fulvy)は、フランス国王ルイ15世から、マイセン磁器のような磁器の研究および製作を行うための許可をもらいました。

当時、ドイツ東部に位置するマイセンの硬質磁器 (真正磁器)は羨望の的だったのです。

これが国立セーブル製陶所の始まりです。

当時、フランスで最も重要な磁器を製作していたのはシャンティイ製陶所でしたが、1740年1月27日、シャンティイ製陶所を支援していたコンデ公爵が亡くなったことをきっかけに、オリー・ド・フルヴィは、シャンティイ(Chantilly)製陶所で製造技法を習得したロベール・デュボア(Robert Dubois)、ジル・デュボア(Gilles Dubois)の兄弟、同じくシャンティイ製陶所で完全な白色(通常の軟質磁器は灰色)をしている軟質磁器のペースト(生地)を発明したばかりだったクロード・ハンバート・ジェリン(Claude Humbert Gérin)の協力を得てパリ東部に位置するヴァンセンヌ(Vincennes)城内に製陶所を設立しました。

※1660年頃のヴァンセンヌ城(南からの眺め)。アダム・フランシス・ファン・デル・ミューレン(Adam-François van der Meulen)画

出典:Musee Carnavalet


オリー・ド・フルヴィの異母兄でありフランス財務長官であるフィリベール・オリー(Philibert Orry)の支援を得、自費を投じて設備を整え製陶所を作り上げたのでした。

しかしデュボア兄弟の軟質磁器についての知識は不完全であり、磁器製作はできるものの成果はあがりませんでした。

そこでオリー・ド・フルヴィはシャンティイ式軟質磁器の製法を身に着けている陶工 ルイ・フランソワ・グラヴァン(Louis François Gravant)をヴァンセンヌ製陶所に招きました。

グラヴァンとデュボア兄弟は約3年ほど協力し合いましたが、マイセン磁器の品質には全く及びませんでした。

ヴァンセンヌ製陶所は1738年の創業開始からおよそ5、6年で約60,000リーブルを失ったと言われています。

※当時の60,000リーブルは現在の日本円で3,000万円くらいと推定されます。

1742年~1743年頃、グラヴァンは生地の作り方と釉薬の配合のすべてををジェリンから引き継ぐようにオリー・ド・フルヴィから指示されました。

そして1744年、デュボワ兄弟はヴァンセンヌを去ることになりました。

解雇理由は資金難でしたが、実際はそれに加えて彼らの技術力不足により成果が芳しくないことでした。

時を同じくしてジェリンもヴァンセンヌを去りました。

ヴァンセンヌ製陶所にとって、デュボワ兄弟はともかくジェリンが去ったことは痛手でした。

ジェリンはデュボワ兄弟についていき、別の製陶所で働き始めました。

※ヴァンセンヌ城は、1814年の第六次対仏大同盟軍との戦いにおいてピエール・ドームスニル(Pierre Yrieix Daumesnil)将軍麾下300人が最後まで守り抜いた場所です。1813年のライプツィヒの戦いでフランス軍が敗北した翌年の1814年、連合軍はパリに迫りヴァンセンヌ城に立て籠もるドームスニル将軍に降伏勧告を行いました。しかし、ドームスニル将軍は「失った俺の左足を取り戻したらヴァンセンヌ城を引き渡そう」と言ったと言われています。その左足はヴァグラムの戦いで失ったものでした。

セーブル磁器の歴史②:倒産危機と株式会社の設立

1745年、異母兄であるフランス財務長官フィリベール・オリーは弟の失態を国王にも知られ、恥ずかしい思いをしました。

そのためオリー・ド・フルヴィは表舞台には現れないことにし、彼の従者の1人であるカール・アダムを名目上表舞台に立たせました。

そして資金難を解決するためにカール・アダム社の設立を計画し、新たな出資者を募り、今までの出資者達に増資を求めました。

新たな出資者を募り増資を求める中で「マイセンと同等品質の製陶所をフランスに設立することはできていません。しかし、マイセンと同等品質の製品を製造する研究は成功しました。」とグラヴァンは説明しました。

実際にはマイセンのような硬質磁器の製造はできていませんでしたが、「マイセンと同等品質の磁器」では無く「マイセンと同等品質の製品」と説明して出資を求めたのです。

商務委員会では30年の独占権を付与する結論となりましたが、1745年7月24日、国王が出席する評議会で審議が行われ、国王は独占権を20年としました。

そして新たな株主と増資を獲得し、国王の支援も決まり、ヴァンセンヌ製陶所は1745年7月に新たに設立されたカール・アダム社の所有となり倒産の危機を免れました。

倒産の危機を免れ独占権を得たもののオリー・ド・フルヴィにとってその代償は大きく、1745年12月5日、異母兄フィリベール・オリーがポンパドゥール夫人から反対にあいフランス財務長官の職を失うことになりました。

セーブル磁器の歴史③:トンネル型連続窯の発明

©senjyutu.net


1746年、デュボワ兄弟とともにオリー・ド・フルヴィの元を去ったクロード・ハンバート・ジェリンがヴァンセンヌ製陶所に舞い戻ってきました。

同年、原型彫刻師として名を馳せていたルイ・フルニエが、1748年にはアートディレクターとしてジャン=クロード・シャンベラン・デュプレシス(Jean-Claude Chambellan Duplessis)が加わり、ヴァンセンヌ製陶所には人材が集まり始めました。

さら1748年、ジェリンがトンネル型の連続窯を発明しました。

この連続窯は入口から出口まででゆっくりと加熱冷却が行われ、最短1時間で焼成を行うことができる非常に画期的な発明でした。

そして1748年10月20日以降、連続窯で釉薬に関する研究が集中的に行われ、色の種類は100色を数えるようになりました。

この連続窯がなければ、紫色、ラピスラズリ・ブルー、ブルー・セレスト、緑色、黄色、ピンク色は表現できなかったでしょう。

トンネル型の連続窯は現在でもセーブルで使われています。

そしてカルメル修道会の僧侶であるヒポリテ(Hipolyte)から金色の秘密(金彩)を伝授されました。

さらに陶花の製造のために新たな独占権を獲得しました。

1748年、陶花の製作が本格化され、グラヴァン夫人の下で約20人の若い女性の労働者で構成される「花組(fleurisserie)」が結成されました。当時は女性が工場で働くことを禁じられていましたが、1753年まで存続しました。

1748年はヴァンセンヌ製陶所にとって飛躍の年であり、現在も続くセーブル製陶所の歴史の上で重要な年となりました。

新たな技術を習得して高品質な軟質磁器を製造し、陶工 フランソワ・グラヴァンが製作を取り仕切るヴァンセンヌ製陶所の経営は軌道に乗り始めました。

セーブル磁器の歴史④:新たな危機

1750年、画家フィリップ・シュルーエ(Philippe Xhrouet)がヴァンセンヌ製陶所の一員に加わり、縁取りと草花の絵で評判となりました。

順調に発展しているヴァンセンヌ製陶所は、同年5月11日、事業拡大のために12万リーブルの新規増資を行いました。

しかし1750年中に、新たな株主は、資本の50%を所有するために水面下で旧株主から株式を購入しようとしました。

1751年5月3日、ヴァンセンヌ製陶所に再び危機が訪れます。

今までヴァンセンヌ製陶所の経営に奔走してきたオリー・ド・フルヴィがパリの邸宅で亡くなってしまったのです。

これを契機として新たな株主の1人であるウーブレスキ(Ubulesky)がヴァンセンヌ製陶所の支配権を我が物にしようと動き出しました。

ヴァンセンヌ製陶所の経営は軌道に乗っており、多くの独占権も取得していたため非常に魅力的だったのでしょう。

内部対立が深まり、脅威に思った他の株主達は国王に介入を求めました。

1751年6月25日、「ヴァンセンヌ城に設立された製陶所の運営に関するさまざまな機密」を確実に確認するために王立科学アカデミー所属の化学者ジャン・エロー(Jean Hellot)が任命され、王はすべての製造機密が引き継がれるという条件でそれを受け入れました。

エローが1751年10月7日に報告書を提出すると国王が介入して大株主となり、1745年の独占権を取り消し、1752年に新たな独占権を付与しました。

その独占権の中には、多くの色の独占使用権が含まれていたため、他の製陶所の規模は縮小の一途をたどりました。

1752年、化学者エローはヴァンセンヌ磁器の製作工程と技術を改善する任務を与えられました。

エローは後に新しい青い染料である「ブリュ・ド・ロワ(Blue de roi 王家の青)」やポンパドゥール夫人お気に入りの色であり、俗にポンパドゥール・ピンクと呼ばれる「ローズ・ポンパドゥール(ポンパドゥールの薔薇色)」を発明します。

そして国王の介入により新たな会社であるエロワ・ブリシャード(Éloi Brichard)社が設立されたことによりヴァンセンヌ製陶所はエロワ・ブリシャード社の所有となりました。

これらの施策のほとんどはルイ15世の公妾であるポンパドゥール夫人の提案により行われました。

ポンパドゥール夫人の絵画の教師だった画家フランソワ・ブーシェ(François Boucher)もこの頃にヴァンセンヌ製陶所で作品を残しています。

※フランソワ・ブーシェによって描かれた中国風デザインのヴァンセンヌ磁器。1749年~1753年頃に製作。

この頃のヴァンセンヌ磁器は東洋の影響を強く受けたマイセン磁器の模倣を行っていたため東洋風デザインのものが多い。

出典:Musée des Arts Décoratifs


これ以降、東洋の影響を強く受けたマイセン磁器の模倣ではなく、フランス風の磁器製作が徐々に開始されることになります。


※1751年、ポンパドゥール夫人は陸軍士官学校の建設に着手し、ポンパドゥール夫人の死後、1780年に完成しました。このパリの陸軍士官学校には1784年10月にナポレオン・ボナパルト(15歳)が入学し、1年間通学していました。

セーブル磁器の歴史⑤:セーブルへの移転

1753年、ヴェルサイユ宮殿とパリの中間に位置するセーブルで新たな製陶所の建設が始まりました。

これはポンパドゥール夫人が自身の住まいであるヴェルサイユ宮殿とパリとの間を行き来する途中で視察を行うためと言われています。

ポンパドゥール夫人の別荘であるベルビュー城(Château de Bellevue)が1750年にセーブルの隣に建てられていたため、ポンパドゥール夫人が立ち寄るには丁度いい場所でした。

そして1756年、「セーブル製陶所」が完成し、ヴァンセンヌ磁器の製造はセーヴルに移管されました。

同時に、ルイ15世は全株式を取得し、唯一の株主になりました。

※セーブルの製陶所が完成した1756年は、ナポレオンが尊敬するプロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が、オーストリア皇帝の妻であり共同統治者マリア・テレジアが主導し、フランスの公妾ポンパドゥール夫人、ロシアの女帝エリザヴェータ等とともに計画した「3枚のペチコート作戦」により包囲され、プロイセンが予防戦争としてザクセンに侵攻したことにより全ヨーロッパを巻き込む「七年戦争」が始まった年です。

セーブル磁器の歴史⑥:黄金期の到来

※ベルビュー城にてポンパドゥール夫人をモデルとした絵画「美しい庭師」。シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(Charles-André van Loo)画。1754~1755年頃の作。

出典:Wikipedia


ポンパドゥール夫人はその美貌だけでなく才知溢れる女性であり、当時のファッションリーダーでした。

そして政治に興味のないルイ15世に代わって人事を行い、フランスの政治を取り仕切っていました。

ポンパドゥール夫人はその立場と行動力からあらゆる業界の人物と交流がありました。

1757年、ファルコネ(Étienne-Maurice Falconet)はポンパドゥール夫人によってセーブル製陶所の彫刻主任に任命され、1766年まで自ら原型を製作した素焼の彫像の生産を監督しました。

そして1756年にポンパドゥール夫人の弟であるマリニー侯爵の依頼でポンパドゥール夫人のために2枚の絵画を描いたジャン・バティスト・グリューゼ(Jean-Baptiste Greuze)もセーブルに招き入れました。

ポンパドゥール夫人のこれらの施策によりセーブル磁器の芸術性と品質はさらに向上し「高貴な人への贈り物」として誇ることのできるものに成長していきました。

1757年12月9日にはルイ15世がデンマーク王フレデリク5世から有名なフレデリクスボー(Frederiksborger)種の種馬を受け取ったお礼として、72枚の皿を含む164点の食器からなるセーブル磁器の食器セット贈りました。


※フレデリク5世に贈られた食器セットのプレートの内の1枚。

出典:ルーブル美術館


この食器セットはフランスの外務長官であるベルニス枢機卿を通して贈られ、1758年4月25日にコペンハーゲンに到着しました。

※1830年頃のフレデリックスボー。クリスチアン・デビッド・ゲバウアー(Christian David Gebauer)画。
当時、フレデリックスボー種の馬はデンマーク=ノルウェーの重要な輸出品の1つでした。

出典:Wikipedia


これはセーブル磁器が外交上の贈り物とされた最初の例と考えられています。

この贈り物は大変喜ばれ、これを契機としてセーブル磁器は重要人物への贈り物としての役割を担っていくことになります。

その後、いつの時点かは不明ですが、フレデリク5世に贈られた食器セットはロシアのエカチェリーナ2世に贈られ、その多くが今もエルミタージュ美術館に保存されています。

1758年12月2日、フランスとオーストリアとの同盟の記念として縁に緑のリボンが施された「花輪飾り」の皿74枚を含む185点の食器セットが贈られ、その他にも数多くのセーブル磁器がヴェルサイユ条約の立役者であるオーストリア皇后マリア・テレジアに贈られました。


※マリア・テレジアに贈られた食器セットのプレートの内の1枚。

出典:ルーブル美術館


そして1759年、セーブル製陶所はその品質が認められ、王立の名を冠し「王立セーブル製陶所」となりました。


※王立セーブル製陶所


その後、王立セーブル製陶所はルイ15世から金彩と色絵の独占権を得て、高貴な人々のための高級品を作り出し発展していくことになります。

セーブル磁器の歴史⑦:重要人物達の死と失われたポンパドゥールの薔薇色

ルイ15世とポンパドゥール夫人の支援により順調に発展していった王立セーブル製陶所でしたが、悲しい出来事が続きました。

1763年に七年戦争に敗北し、1764年4月15日、あらゆる分野の人材を集め自らセーブル磁器の製作を支援していたポンパドゥール夫人が結核を患いヴェルサイユで亡くなり、翌1765年3月11日、ヴァンセンヌ製陶所時代から磁器製作の全般を監督していた陶工 ルイ・フランソワ・グラヴァンが亡くなりました。

さらにその翌年の1766年2月15日、様々な色の釉薬を発明していた化学者ジャン・エローがパリで亡くなったのです。

グラヴァンの死後、息子であるルイ・フランソワ・グラヴァン2世が1774年までセーブル製陶所を監督しました。

グラヴァンは陶工としての技術を息子であるグラヴァン2世に教え込んでいたのです。

しかし、エローの死は王立セーブル製陶所の技術の一部を失わせました。

王立セーブル製陶所の代表的な色である「ブリュ・ド・ロワ(王の青)」は釉薬の配合の継承がなされていましたが、「ポンパドゥールの薔薇色」に関してはエローしか配合を知らず、誰にも教えていなかったため、エローの死とともに失伝してしまったのです。

これ以降「ポンパドゥールの薔薇色」は表現できず、王立セーブル製陶所から姿を消しました。


◎ポンパドゥールの薔薇色の磁器


セーブル磁器の歴史⑧:硬質磁器の研究

1768年、ボルドーの薬剤師ヴィラリス(Vilaris)と彼の友人で外科医であるジャン=バティスト・ダーネット(Jean-Baptiste Darnet)が、リモージュの南にあるサン=ティリュー=ラ=ペルシュ(Saint=Yrieix=la=Perche)で、カオリンの堆積物を発見しました。

これはフランスの国土で発見された最初のカオリン鉱床でした。

これを契機としてセーブルで硬質磁器製作のための研究が行われ、1770年から硬質磁器の販売が開始されました。

その頃から、ポンパドゥール夫人の代わりを新しくルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人が務め始めました。

1771年、デュ・バリー夫人のための322点で構成される「パーティー用食器セット」が製作され、同年8月末に行われた音楽パビリオンで使用されたと言われています。

※1769年頃に描かれた「花飾りをつけたデュ・バリー夫人の肖像画」(Portrait de la comtesse Du Barry en Flore)。フランソワ・ユベール・ドルエ(François-HubertDrouais)画

出典:Wikipedia


※デュ・バリー夫人のための食器セットの一つ

出典:ルーブル美術館


この頃のセーブルでは硬質磁器の製作技術は販売が開始されたとはいえ研究段階であり、貴族達の間では硬質磁器製のものよりも軟質磁器製のものの方が好まれました。

そのため、デュ・バリー夫人のために製作された食器セットは軟質磁器製でした。

セーブル磁器の歴史⑨:デュ・バリー夫人の追放と悲劇の王妃マリー・アントワネット

※1775年に描かれた王妃マリー・アントワネット。ジャン・バプティスト・アンドレ・ダゴティ(Jean-BaptisteAndréGautier-Dagoty)画。

出典:Wikipedia


1770年、マリー・アントワネットはルイ=オーギュスト(Louis-Auguste 将来のルイ16世)と結婚し、王太子妃となりました。

1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で豪華絢爛な結婚式が行われ、2人の結婚を祝いおよそ1か月もの間パーティーが続きましたが、その時にもあらゆるところでセーブル製の磁器が使用されました。

ですがその4年後の1774年5月10日、ルイ15世が天然痘によりヴェルサイユで崩御してしまいました。

この時、ルイ=オーギュストは「私は何一つ教わっていないのに」と嘆き、国王になる重圧を恐れてマリー・アントワネットと抱き合って泣いたと言われています。

ルイ15世の死後デュ・バリー夫人は、マリー・アントワネットの言葉を受け入れた新たな国王ルイ16世によって追放同然にポン・トー・ダム修道院(The Abbey du Pont-aux-Dames)へ入るよう命令が出され宮廷を追われています。

これにより王立セーブル製陶所におけるデュ・バリー夫人が担っていた役割をマリー・アントワネットが徐々に担っていくことになります。

セーブル磁器の歴史⑩:革命の足音

※フランス革命の予兆と見做されている「小麦粉戦争」。小麦の長期的な不作よる食料難に直面した市民達がパンを略奪している様子。


1775年4月、フランス国内で暴動が発生しました。

これは1773年から1774年にかけて小麦の不作が続いており、小麦粉やパンの価格が大幅に上昇したことが原因で起こったものでした。

1775年の春の収穫前に小麦の備蓄が使い果たされ飢饉となったのです。

そしてフランスの経済状況が危機的状況にあることとマリー・アントワネットの浪費を関連付けて中傷が広まりました。

これを聞きつけた母マリア・テレジアは、マリー・アントワネットの浪費癖を諫める手紙を送りましたが、マリー・アントワネットはこれを聞き入れず、浪費を続けました。

フランス革命の前奏曲が流れ始めた瞬間でした。

王立セーブル製陶所の栄華とは対照的にフランス国民の生活水準は低下していったのでした。

セーブル磁器の歴史⑪:ロシアの女帝エカチェリーナ2世からのオーダー

※戴冠式のローブを纏ったエカチェリーナ2世(1778年~1779年頃)。ウィギリウス・エリクセン(Vigilius Eriksen)画

出典:Wikipedia


国内の経済状況に関わらず王立セーブル製陶所は順調に発展していきました。

1776年のある日、パリに駐在しているロシア大使からオーダーが入りました。

ロシアの女帝エカチェリーナ2世が食器セットを製作して欲しいとのことでした。

エカチェリーナ2世が欲していたのは、トルコ石のような青色である「ブルー・セレスト」を使った、カメオと呼ばれる浮き彫りの技法が施された作品でした。


※食器セット「カメオ」のプレートの内の1枚

出典:エルミタージュ美術館


当時「ブルー・セレスト」は軟質磁器でしか表現することができない色であり、セーヴル製陶所で独自に開発されたものでした。

その食器セットは797点で構成され、「カメオ」と名付けられました。

その点数の多さに加え浮き彫りを施さなければならなかったため、製作期間は3年を要し、1779年にエカチェリーナ2世の元に届けられました。

この「カメオ」と名付けられた食器セットはセーブル製陶所史上最も高額なオーダーだったと言われています。

そのほとんどは現在もサンプトペテルブルクのエルミタージュ美術館に収蔵されています。

セーブル磁器の歴史⑫:王妃マリー・アントワネットによる最初の購入

1777年、王妃としての生活に慣れた頃、マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿内で開催されている王立セーブル製陶所の展示会で、伊万里焼の影響を受けた装飾が施された74点で構成される「日本」という名の食器セットを見つけました。

※食器セット「日本」のプレートの内の1枚


母であるマリア・テレジアは日本の漆器をこよなく愛し、マリー・アントワネットもまた母の影響を受けていました。

マリー・アントワネットはこの食器セット「日本」を自ら購入したと言われています。

母が喜ぶと考えたのかもしれません。

この「日本」という名の食器セットは硬質磁器であり、この頃には既に硬質磁器の品質はかなり高まっていたと考えられます。

セーブル磁器の歴⑬:マリー・アントワネットによる支援

1780年、マリー・アントワネットは「バラと矢車菊(Roses et Barbeaux)」という名の食器セットを購入しました。

※食器セット「バラと矢車菊(Roses et Barbeaux)」のプレートの内の1枚

出典:ヴェルサイユ宮殿美術館


110点で構成され、白地に2重の青い飾り縁の内側を薔薇のと矢車菊の絵で装飾されたシンプルなデザインでした。

これも展示会で見かけた物を自ら購入したものであり、マリー・アントワネットのために製作されたものではありませんでした。

1781年7月、マリー・アントワネットは王立セーブル製陶所に初めてオーダーしました。

それは「真珠と矢車菊」という名の293点で構成される食器セットでした。

※食器セット「真珠と矢車菊(Perles et Barbeaux)」のプレートの内の1枚

出典:ヴェルサイユ宮殿美術館


この食器セットもシンプルなデザインで、白地に真珠とブルーエ(野生の矢車菊)の2つのモチーフで装飾されものでした。

翌1782年1月2日に納品されたのですが、マリー・アントワネットはこの食器セットの製作を急がせたと言われています。

「真珠と矢車菊」の食器セットは1782年6月6日、西ヨーロッパを旅行中だったロシア皇太子夫妻(後のパーヴェル1世とその妻)に夕食を振る舞った際に初めて使用されたと言われています。

1784年2月12日、マリー・アントワネットは「豪華な色彩と金彩(Riche en couleurs et Riche en or)」の237点で構成される食器セットを王立セーブル製陶所にオーダーしました。


※食器セット「豪華な色彩と金彩(Riche en couleurs et Rche en or)」のプレートの内の1枚

出典:ヴェルサイユ宮殿美術館


同年5月に完成したのですが、6月にフランスと友好を結ぶ為にパリを訪問していたスウェーデン王グスタフ3世に贈られてしまいました。

この時、グスタフ3世はハガ伯爵の名前で王立セーブル製陶所を視察に訪れたのです。

ルイ16世はスウェーデンの港湾都市ヨーテボリ(Gothenburg)での取引特権を得る代わりに、カリブ海に浮かぶサン・バルテルミー島を売却しました。

そのため、マリー・アントワネットの為に同じ食器セットが急いで製作され、8月にマリー・アントワネットの元に届けられたと言われています。

このように、王立セーブル製陶所の磁器はあらゆる外交の場で使用され贈られたのです。

セーブル磁器の歴史⑭:フランス革命と黄金期の終焉

※ジャン=ピエール・ウエル(Jean-Pierre Houël)が1789年に描いた「バスティーユ襲撃」。
ウエルは革命の間、バスティーユまで歩いて行ける距離であるサントノーレ通りに住んでいました。もしかしたらバスティーユ襲撃をその目で見ていたのかもしれません。

出典:Wikipedia


1789年、ルイ14世の治世の後期から貴族階級の特権が拡大していったことが原因となりフランスの財政が破綻してしまいました。

ルイ16世は改革派を財務長官に据えるなどの対策を取りましたが貴族たちの力は大きく、改革はその都度妨害され、改革派の財務長官は追放されることが繰り返されました。

その結果、貴族達への優遇政策から方針転換できず、貴族と国民の対立は一層深まりました。

そして7月12日の午後、市民に開放され革命家のたまり場となっていたオルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルで「諸君、武器を取れ!!」と大声でカミーユ・デムーランが演説し、パレ・ロワイヤルに集まっていた大群衆およそ6000人が、それを解散させるためにやってきた軍隊と衝突しました。

さらに7月14日、廃兵院を襲って武器を調達した群衆が、大砲で武装し武器弾薬庫でもあったバスティーユ牢獄を襲撃する事件が起こります。

パリのあらゆる所で国王軍は敗北し、群衆に抵抗した軍の指揮を執っていた貴族は処刑され、有力な貴族は逃亡しました。

そしてフランス各地で反乱や暴動が起き、貴族達の富の象徴だった王立セーブル製陶所も標的となり作品の多くが破壊され略奪に合い、操業停止にまで追い込まれました。

セーブル製陶所の人材の中にもフランス革命の騒乱から逃れるために外国に行った者もいました。

セーブル磁器の歴史⑮:セーブル製陶所の再建

操業停止に追い込まれたセーブル製陶所ですが、その従業員は再建を始め、従業員の妻と娘はセーブルを訪れた人達に販売するために羽毛細工を作りました。

1795年11月、フランス革命の嵐が過ぎ去り、1797年までの間にセーブル製陶所は磁器の製作を始めました。

再建は現存している1790年代製作の作品数の少なさから、小規模から始めたのではないかと考えられます。

セーブル磁器の歴史⑯:ナポレオンによる国有化

1799年8月22日、ナポレオンが少数の側近とともにエジプトから脱出しフランスに帰還すると、フランス国民はナポレオンの到着を歓迎しました。

帰還したナポレオンはエマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès)が主導する軍事クーデター計画に加わり、1799年11月9日、「ブリュメール18日のクーデター」でパリと議会の秩序を維持するために軍総司令官の役割を担い、総裁政府を打倒しました。

そして1799年12月25日、クリスマスに第一統領となり、実質的な独裁権を手にしたのです。

1800年に入り、ナポレオン執政政府は化学者アレクサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart)をセーブル製陶所の所長に任命し、国立として再建しました。

※1817年頃の国立セーブル製陶所


これ以降、国立セーブル製陶所は再び世界の高貴な人々や国内の富裕層に向けて製作を始めることとなり、栄光を取り戻したのでした。

国立セーブル製陶所で作成された作品の多くは外交上の贈り物などとして使用されました。

セーブル磁器の歴史⑰:ナポレオンの影響

※「ナポレオンの戴冠式」。ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)画。
フルタイトル「1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂で行われた皇帝ナポレオン1世の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式(Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804)」

出典:Wikipedia


1804年5月、ナポレオン・ボナパルトは国民投票によって皇帝に即位し、ナポレオン1世となりました。

同年12月2日に「フランス人民の皇帝」としての戴冠式が行われました。

これ以降、ナポレオンの影響を強く受けた帝政様式(アンピール様式)が徐々にヨーロッパ中に広まり、セーブル磁器もその影響を強く受けることになります。

1809年にはナポレオン自ら食器セット「マリー・ルージュ(Marly Rouge)」をオーダーしフォンテーヌブロー宮殿に届けさせています。

オーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚祝宴時にもナポレオン自らが絵柄を指示した食器セットやエジプト風デザインのコーヒーカップとソーサーのセットが使用されました。

sevres ◎ナポレオンとともにあったセーブル磁器3選
ナポレオンは自身の権威を表すため、そして自身の辿った足跡を残すために国立セーブル製陶所に特注の磁器をオーダーしていました。その中から思い入れの深いものをエルバ島やセントヘレナ島にまで持って行きました。それらのセーブル磁器をナポレオンの歴史的背景と重ね合わせながら解説しています。
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そして、同時期(1809年~1810年)にナポレオンが妹エリザ・ボナパルトのために贈った食器セットが製作されています。

※1809~1810年に製作され、ナポレオンが妹のエリザに贈った食器セットのプレートの内の1枚。

出典:ピッティ宮殿


この食器セットもナポレオンの影響を強く受け、古代ギリシア・ローマ風デザインとなっています。

ナポレオンは古代ギリシアやローマ、エジプト風のデザインを好みました。

白と紺の背景に金彩が施され、縁にエリザ・ボナパルトが自らのシンボルとして選んだ白鳥が金彩で描かれています。

エリザはこの食器セットを気に入っており、ナポレオンがエルバ島に封じられた1814年にトスカーナを追われルッカに行くことになった際にもこの食器セットを持って行ったと言われています。

セーブル磁器の歴史⑱:現代まで

※現在の国立陶芸美術館

出典:セーブル市役所HP


1824年、国立セーブル陶磁器博物館が設立されました。

これは製陶所に隣接して建設され、セーブル磁器だけでなくすべての時代とすべての大陸の陶磁器の収集を始めました。

1875年、国立セーブル製陶所と隣接する博物館はサン=クルー公園の隣に移されました。

現在、国立セーブル製陶所は今も伝統を受け継ぎ、新たな技術を吸収しながら陶磁器の製作を続けています。

そして国立セーブル陶磁器博物館は国立陶芸美術館になっており、約50,000点にも及ぶ陶磁器が集められ、一般に開放されています。