イギリスによるコルシカ侵攻とロベスピエール兄弟の死

本記事ではフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトに関する1794年に行われた「サオルジオの戦い」の後からロベスピエール兄弟の死までを記載しています。

ナポレオンはこの期間中にロベスピエールという後ろ盾を失い、オーギュスタン・ロベスピエール等と計画していた秘密の作戦は頓挫してしまいました。

まだ世に名を知られていない時期のナポレオンの知られざるエピソードです。


総司令官業務の一部代行

サオルジオの戦いの後、イタリア方面軍総司令官デュメルビオン将軍は痛風によって寝たきりとなり、総司令官職の辞任を求めました。

しかしそれは認められることは無く、オーギュスタン・ロベスピエールとリコード、サリセッティ等は、負担軽減のためにナポレオンにデュメルビオン将軍の業務の一部を代行させました。

直接ナポレオンと接していたため、ナポレオンに任せた方が良い結果になることを理解していたのです。

しかし、それ以外の人達・・・特に現状を変えたく無い人達は若く経験が浅いナポレオンに対して冷ややかでした。


イギリスによるコルシカ侵攻

コルシカの権力者パオリはフランス政府によりサルデーニャ遠征の失敗の責を負わせられようとしていたためイギリスと接触し、1794年6月17日に英国人を副王(王はイギリス王ジョージ3世)としてコルシカ王国を建国しました。

そしてイギリス艦隊を呼び込みイギリスによるコルシカ侵攻が始められました。

この時フランス海軍は1793年に行われたトゥーロン攻囲戦時にイギリス士官シドニー・スミスの手によって多くの艦艇を失っており、この侵攻に対して無力でした。

7月、サミュエル・フッド提督率いる艦隊がコルシカ島に派遣され、コルシカ島のフランス軍を撃破しコルシカ島を占領しました。

ホレーショ・ネルソン海軍大佐は戦列艦「アガメムノン」艦長としてコルシカ侵攻に参加しており、7月21日に行われたカルヴィ(Calvi)での戦いで右目を失っています。

これ以降、コルシカ島はイギリスの海軍基地として利用されることになり、イギリスはリグリア海での制海権を確固たるものにしました。

コルシカ島がイギリスの勢力下に置かれたことはフランス・・・特にイタリア方面軍にとって脅威でした。

海上輸送が困難となるだけでなく、コルシカ島という橋頭保を手に入れたイギリス軍による大陸への上陸作戦の危険性が常に付きまとうこととなったからです。



秘密の作戦計画

ナポレオンと派遣議員達は無期限延期となった計画を実行に移したいと考えていました。

しかし、波風を立てたくない周囲の人達や現状を変えたくない人達はやんわりとそれを否定しました。

そのため表向きの比較的小規模な侵攻作戦を立案して隠れ蓑にしながら、その侵攻作戦に参加するために送られてきた増援部隊の一部や最近失われたコルシカ島に向けられた大規模な遠征軍などを利用して自分達の自由になる部隊を集めました。

アルプス方面軍はアルジャンティーラ峠で陽動を行い、イタリア方面軍がデモンテ(Demonte)に隣接するコンソラータ要塞(Forte della Consolata)を包囲して占領するという計画が表向きの作戦で、この作戦のために送られてきた増援部隊やコルシカ島遠征軍を利用してモンドヴィへの迂回攻撃を行おうというのです。

この作戦は、イギリス海軍にコルシカ島を奪われて海上輸送が行えなくなったイタリア方面軍の補給事情を大幅に改善するだけでなく、アルプス山脈におけるフランス軍の立場を強固なものとし、将来サルディーニャ王国の首都であるトリノに攻め上るための布石となるものでした。

この計画はオーギュスタン・ロベスピエールやサリセッティ等派遣議員とナポレオン以外に知るものはおらず、総司令官であるデュメルビオン将軍にも秘密にしていました。

ナポレオンはオーギュスタン・ロベスピエール等と何度も打ち合わせを行い、オーギュスタン・ロベスピエールはこのナポレオンの計画を兄マクシミリアン・ロベスピエールに見せるためにパリに向かいました。

フランスの最高権力者であり恐怖政治を行っているマクシミリアン・ロベスピエールに作戦計画を直接ねじ込もうとしたのです。

しかしオーギュスタン・ロベスピエールがニースに戻ってくることはありませんでした。


テルミドール9日のクーデタによる後ろ盾の喪失

1794年7月27日、テルミドール9日のクーデタ(テルミドール反動)が発生します。

これはロベスピエールが行った恐怖政治での恐怖が頂点に達した人達による反ロベスピエールクーデターでした。

マクシミリアン・ロベスピエールは逮捕され、ナポレオンが懇意にしていた弟のオーギュスタン・ロベスピエールも「兄と運命を共にしたい」と自ら名乗り出て逮捕されました。

そして兄マクシミリアン・ロベスピエール等とともにシャンゼリゼ通りとテュイルリー宮殿(現在は庭園)の間にある革命広場(現在のコンコルド広場(Place de la Concorde))でギロチンにかけられました。

これによりナポレオンは作戦計画が頓挫しただけでなく、後ろ盾を失ってしまったのでした。