最初のデゴの戦い

本記事ではフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトが関わった1794年9月に行われた「最初のデゴの戦い」について記載しています。

ナポレオンは「最初のデゴの戦い」において総司令官代理として初めて軍を指揮しました。

ロアノの戦いや第一次イタリア遠征におけるナポレオンの戦略に繋がる戦いです。


最初のデゴの戦い

カッレ砦から釈放されイタリア方面軍に戻ったナポレオンは現状を把握し侵攻計画を立案しました。

この時、ナポレオンとサリセッティとの間には冷ややかな空気が流れていたと言われています。

1794年9月初旬、サリセッティはデュメルビオンに秋の侵攻計画について通知しました。

デゴとカイロ・モンテノッテの間に集結しているオーストリア軍を叩くことによりオーストリア軍とピエモンテ軍の共同作戦の芽を摘むという計画でした。

そこへジェノヴァ共和国軍と共同でサヴォナに隣接する港町であるヴァド(Vado)を攻撃するというフランス政府から要請がありました。

これはイタリア方面軍にとって願ってもないことでしたが、反対勢力の政治的努力によりこの要請は取り消されました。

そしてデュメルビオン将軍とナポレオンが協力して指揮を執り、軍を2つに分けてオーストリア軍を攻撃することが決まりました。

各師団は9月13日に出発し、派遣議員のアルビッテとサリセッティ、総司令官デュメルビオン将軍、総司令官代理であるナポレオンは9月15日に馬に乗り出発しました。

9月18日、ナポレオンの師団の前衛を指揮するラハープはモンテゼモロ(Montezemolo)に到達し、ナポレオンはカリッツァーノ(Calizzano)を通過しビエストロ(Biestro)から全方向に偵察部隊を派遣し、その後部隊を派遣しました。

19日、セルヴォニ旅団がフィナーレからカルカレを繋ぐ重要地点サン・ジャコモの峠を攻撃して容易にこれを占領し、マッセナはミレッシモのすぐ南に位置するアクアフレダ(Acquafredda)に真夜中に到着しました。

20日夜7時頃、マッセナとラハープはカルカレで合流し野営しました。

そして21日夜明け、カイロ・モンテノッテに集結したイタリア方面軍は全軍でオーストリア軍の追跡を行いました。

しかし、カイロ・モンテノッテにオーストリア軍の姿はすでに無く、カイロ・モンテノッテとデゴの間に位置するロケッタ・カイロ(Rocchetta Cairo)まで進軍しました。

デュメルビオン将軍はロケッタ・カイロで砲兵が到着するまで3時間停止しました。

この時間はデゴで待ち構えているオーストリア軍に補強の時間を与えることになりました。

そしてデゴへの攻撃命令が下り、フランス軍は何とか勝利を収めます。

翌日、ナポレオン達はデゴに入り、ラハープとマッセナにデゴの北に位置するピアーナ(Piana)のオーストリア軍前哨基地を攻撃させ占領しました。

9月25日の夜、ナポレオンとマッセナはオーストリア軍が放棄したサヴォナを占領し、翌26日アルビッテとサリセッティの命令によりラハープはヴァド(Vado)を占領しました。

ナポレオンはこの時にサヴォナよりもヴァドの港の方が大きく海賊やイギリス船の常習的な停泊などが容認されていることを知ったと言われています。

この「最初のデゴの戦い」でナポレオンはモンテノッテ周辺の地図上ではない地理を経験し、ヴァドの重要性を認識しました。

この経験が後に行われる「ロアノの戦い」や「モンテノッテ戦役」の時に生かされることになります。

最初のデゴの戦いでの勝利により、オーストリア軍とピエモンテ軍の連絡線を遮断しだだけでなく、ジェノヴァとの貿易は容易になり、補給の改善が見込まれました。