ナポレオンが愛用したブレゲの時計 

本記事ではナポレオンやナポレオンを取り巻く人々が愛用した時計を紹介しています。

ナポレオン好きな方、世界5大時計の1つであり芸術であるブレゲの時計の歴史的背景やエピソードを知りたい方はぜひご覧になってください。

ナポレオンとアブラアム=ルイ・ブレゲ

1797年、第一次イタリア遠征でオーストリア軍を打ち倒し大勝利を収めたナポレオンは、社会的、政治的に発言力のある地位を獲得し、自身のステータスの向上と軍隊での実用面を両立させる一流のアイテムを探し求めていました。

第一次イタリア遠征前は貧しく貧相な出で立ちのナポレオンにとって、そのアイテムを身に着けている、あるいは使用していることでただ者ではないと思わせる、そして実用的な一流品が必要だったのです。

1798年のある日、そんなナポレオンに数人の親しい将軍達が当時ステータスシンボルと成り得る「時計」の話をし、ブレゲを紹介しました。

その将軍達とは、数ヶ月前にナポレオンの妹ポーリーヌ・ボナパルトと結婚したばかりの義弟ルクレール将軍、ナポレオンの参謀長ベルティエ将軍、ナポレオンの副官ディソレ将軍であると言われています。

1798年当時ブレゲの創業者であるアブラアム=ルイ・ブレゲは、現在のパリ1区にあたるシテ島にあるケ・ド・ロルロージュ河岸39番地で時計工房を経営していました。

アブラアム=ルイ・ブレゲは時計職人として名を馳せており、並み居る貴族を顧客としていました。フランス王妃マリー・アントワネットからも特別な注文を受けたほどでした。

これがこれからフランス皇帝へと駆け上がる「英雄」ナポレオン・ボナパルト時計の進化を200年早めたと言われる「時計界のレオナルド・ダヴィンチ」アブラアム=ルイ・ブレゲの出会いでした。

ナポレオンが購入した時計

※1796年に描かれたアルコレ橋のボナパルト(アントワーヌ=ジャン・グロ作)。アントワーヌ=ジャン・グロは1796年11月15日~17日に行われたアルコレの戦いの時に同行していました。

1798年5月9日にナポレオンはエジプト遠征のためにトゥーロン港に到着し、その10日後にエジプトに向けて出港しましたが、そのおよそ1ヶ月前の4月にブレゲの時計を3種類購入しています。

1、脱進機「ギャルドタン」及びリピーター付き時計 No.38

No.38はどのような時計なのか不明ですが、当時としては高水準のブレゲの技術を搭載した置き時計だったのではないかと思われます。

脱進機「ギャルドタン」とはブレゲ独自の機械式時計の精度を保つ要である機構のことであり、「リピーター」とはボタンまたはレバーを操作すると現在時刻を鐘の音で知らせる機構のことです。


2、カレンダー表示とリピーター付きキャリッジ・クロック(携帯用置時計) No.178

No.178は上部に取っ手の付いた持ち運び可能な時計であり、持ち運びして馬車にも乗せることから馬車時計とも呼ばれる種類の時計です。


3、パーペチュアル・カレンダーとリピーター付き懐中時計 No.216

※画像はイメージです

No.216はナポレオンと呼ばれるハーフハンターの懐中時計だったのではないかと思われます。

ハーフハンターとは、ハンターケース(蓋)の中央部分に穴が空いているかガラス張りになっていて、蓋を閉じた状態でも時計の中央付近が見え、時刻が確認できるタイプの蓋付き懐中時計のことです。

ナポレオンと呼ばれる理由は、ナポレオンが時刻を確認するために時計の蓋を開ける時間も無駄にしたくないほど多忙だったことから、蓋が閉じたままでも時刻が確認できるハーフハンターの懐中時計を使用していたという逸話からきています。

そして閏年の2月29日を含む、異なる月の長さを考慮し、自動的に修正する機能を持つカレンダーをパーペチュアル・カレンダーと呼びます。


特にカレンダー表示とリピーター機能の付いたキャリッジ・クロックは携帯用置時計としては世界初であり、その他の時計もブレゲが1790年に発明した「パラシュート」と呼ばれる耐衝撃吸収機構を搭載していると考えられ、軍隊での使用にも十分耐えられる実用的な一品ばかりでした。

◎ナポレオンが購入した時計に搭載されているパーペチュアル・カレンダーとリピーター機能の付いた腕時計


ナポレオンと関わりのあるブレゲの顧客達

1、フランス皇后ジョゼフィーヌ(Josephine de Beauharnais)

※1809年、アントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)によって描かれたマルメゾン城のジョゼフィーヌ

ジョゼフィーヌはナポレオンの妻であり、ナポレオンがブレゲと出会った同じ年の1798年にブレゲの時計を初めて購入しました。そしてブレゲの時計を気に入り1800年と1806年に自身のために注文し、1810年と1812年には自身と愛娘のオルタンスも注文をしています。

その中で最も有名なものは1800年2月18日に3,000フランで購入した「モントレ・ア・タクト(触覚時計)No.611」でしょう。

◎モントレ・ア・タクト(触覚時計)No.611

モントレ・ア・タクト(触覚時計)はその名の通り触るだけで時刻が分かる時計であり、「盲人のための時計」とも呼ばれています。

ですが、人前で時刻を確認することは失礼だった当時、ブルジョワ階級の女性達に人気を博しました。

ジョゼフィーヌは「モントレ・ア・タクト(触覚時計)No.611」をことの他気に入っており、オランダ王妃となった愛娘オルタンス・ド・ボアルネに譲りました。

オルタンスはこの時計の周囲に付けられたオリジナルのダイヤモンドをより大きなものに留め替え、裏面にダイヤモンドでオルタンスの頭文字Hとその上に王冠をあしらい、デザインの変更を行いました。

1800年のナポレオンが第一執政の時に妻ジョゼフィーヌが購入し、1806年に娘のオルタンスがオランダ王妃となった時にジョゼフィーヌから贈られた触覚時計は、この時より華やかに彩られました。


2、ナポリ王妃カロリーヌ(Marie Annonciade Caroline Murat nee Bonaparte)

※1810年~1812年頃のナポリ王妃カロリーヌ・ミュラ

ナポレオンをして「世界最高の騎兵」と言わしめたジョアシャン・ボナパルト・ミュラ元帥を夫に持ち、1808年にナポリ王妃になったナポレオン・ボナパルトの妹カロリーヌ・ミュラは、芸術全般を支援し、ポンペイの考古学的発見に関心を示し、女学校を設立するなど教育にも熱心でした。

その芸術の中に時計も含まれていました。

記録によると彼女はブレゲから懐中時計と置時計合わせて34点買い入れています。

1810年、ブレゲがナポリ王妃のための時計の製作に取り掛かったそれは、腕に着けて使うように考えられた時計でした。

雄大なナポリ湾の眺めをイメージさせるデザインの卵型腕時計だったと言われています。

◎クィーン・オブ・ネイプルズ 8908


※ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラに納品された世界初の腕時計をイメージして製作されたクィーン・オブ・ネイプルズ 8908

これが世界初の「実用に耐えうる腕時計」と考えられるものです。ブレゲに保存されている台帳には、1812年に納品され、1849年と1855年に修理した記録が残っています。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いでウェリントンに敗北すると夫であるミュラ元帥はウィーン会議でナポリ王位をはく奪され、同時にカロリーヌは王妃ではなくなりオーストリアに亡命しました。

夫ミュラはナポリ奪還を企てますが失敗し処刑されました。

カロリーヌがオーストリアに亡命した時、この時計はフランスのとある伯爵夫人の手に渡り、1855年に行われた修理の後、行方不明となりました。

今は現存しない時計ですが、修理記録によると細長い楕円形のケースに入れられ、ギヨシェ彫りのシルバーの文字盤にアラビア数字が描かれ、オフセンターダイヤルであり、複雑な機構のリピーターやムーンフェイズに加え、温度計までもが組み込まれた極めて精巧に作られた卵型の時計だったそうです。

そして、腕に装着するためのブレスレットは、髪とゴールドの糸を撚り合わせて作られており、予備としてゴールドウォーブンのブレスレットが付属していました。

この時計にインスピレーションを得て造られたコレクションが、「クイーン・オブ・ネイプルズ(Queen of Naples)日本語訳:ナポリの女王」です。

◎クイーン・オブ・ネイプルズ コレクション





クイーン・オブ・ネイプルズ コレクションはクイーン(女王)の名を冠しますので、女性向けの時計です。

贈り物としては「あなたのことを大切に思っている」というメッセージ性も含まれるため、あなたの奥様や彼女への特別なプレゼントとして喜ばれるでしょう。

そして「女王」の名を冠しているため、あなた自身が購入するならば、ステータスシンボルの1つとしてあなた自身を今よりも「高貴」に魅せることができるでしょう。

あなたの大切な人への特別なプレゼントとして、はたまたステータスシンボルの1つとしてブレゲのクイーン・オブ・ネイプルズ コレクションをおすすめします。


3、ロシア皇帝アレクサンドル1世(Aleksandr I)

※1817年にサンクトペテルブルクで描かれたアレクサンドル1世(ジョージ・ドー作)

1793年、フランス革命の最中、ブルジョワ階級の顧客を多く持つブレゲはギロチンリストに載せられていました。

それをジャコバン派の議員であるマラーが教え、ブレゲがスイスに逃亡することのできる安全な通行証を手配してくれました。

以前、マラーが暗殺されようとしたときにマラーを老婆の姿に変装させ共に逃げてくれたお礼でした。

その後、ブレゲはスイスに逃げ、イギリスへの旅行を楽しみました。そしてフランスでのギロチンの嵐がある程度収まった1795年、ブレゲはパリに戻りました。

しかし、顧客としていた貴族達のほとんどが亡命するかギロチンにかけられており、ブレゲはフランスの顧客のほとんどが失われたことを知ります。

そこでブレゲは海外に目を向け、特にロシアで成功を収めました。そして1808年、サンクトペテルブルクに店舗を構えます。

その2年後の1810年、ロシアはフランスに敵対するイギリスへの措置としてナポレオンが発令した大陸封鎖令を破りイギリスと通商を再開しました。

1811年、ナポレオンはロシアへの懲罰の第一段階目の措置として経済制裁を行いましたが、ロシア皇帝アレクサンドル1世はその対抗措置としてフランス製品のロシア内への輸入を禁止しました。

そのためフランスからロシアへ時計を運ぶことができず、サンクトペテルブルクの店舗は閉店を余儀なくされます。

突然、好調だったロシア市場を失ったブレゲは落胆しました。

しかし、1813年にナポレオンがライプツィヒの戦いに敗れ、1814年3月31日にアレクサンドル1世がパリに入場した2日後の4月2日、ブレゲの工房に思わぬ人物が訪ねて来ました。

それはパリに滞在していたロシア皇帝アレクサンドル1世でした。アレクサンドル1世は従僕を1人だけ連れ、身分を隠して店を訪れたのです。

ブレゲの台帳によるとアレクサンドル1世はリピーター付きの時計と、もう一つ別の時計を購入したと記録されています。

ブレゲはアレクサンドル1世を工房の1階にあったこじんまりとした事務室に通し、ささやかな食事を終えるまで時計製造についての話で盛り上がったと言われています。

これがきっかけで、アレクサンドル1世から「歩数計」が発注されることになりました。この「歩数計」は軍の行進時間を調整するためのメトロノームとして用いられ、1820年から1822年までに8個が納品されました。

ロシア皇帝が購入したことで、それがロシア政界に広まり、ロシアからの注文が回復して行きました。


◎ブレゲ時計芸術の最高峰に位置づけられるグランド・コンプリケーション

※アレクサンドル1世の購入した時計に搭載されているミニッツ・リピーター機能が付いた腕時計


このクラシック・グランドコンプリケーションは「ブレゲ時計芸術の最高峰」に位置づけられる腕時計です。

もしあなたが社会的ステータスが上昇中の方や既に社会的ステータスをお持ちの方であるなら、「スマートな資産家」のイメージを定着させるステータスシンボルの1つとして最適な腕時計です。

番外編:フョードル・クジミッチ(Feodor Kuzmich)

※商人S.クロモフの指示によりトムクスで描かれたフョードル・クジミッチの死後の肖像画

アレクサンドル1世は正式には1825年11月19日に腸チフスにかかって死亡したということでした。

しかし、腸チフスであれば瘦せ衰えるはずですが、死亡した47歳時、アレクサンドル1世の体格は良好であり、そのまま彫刻のモデルも務められるほど理想的な状態だったと言われています。

そして葬儀の時、棺の中を見た人によると、皇帝はまるで別人のようだったとの話もありました。

その約10年後の1836年9月4日、モスクワから1,600キロほど離れたペルミという村に、60歳ほどに見える謎の老人が現れました。

老人は身分証明書を所持していなかったため警察に拘束されました。

警察の取り調べで判明したのは、背中に鞭打ちの痕があり、自称文盲であり、幼少期の記憶は無く、名はフョードル・クジミッチということのみでした。

その後、裁判の判決で身分証明書不所持を理由に20回の鞭打ちの刑を受け、シベリアのトムスクに送られました。そしてそこからゼンツァリー村に配属されました。

クジミッチ老は粗末な恰好をしており、見た目も貧相でしたが、子供たちに文字や聖典、歴史などを教えて収入を得ており、その報酬も食べ物だけを受け取り、金銭は拒否しました。

そのため次第にシベリアの住民から尊敬を集め、日常の様々な問題について助言を求めるようになりました。

この頃から「この老人はかつて王族だったではないか」と周囲からささやかれ始めました。

さらにクジミッチ老は、「1812年の戦争は大変なものだった。ナポレオンがモスクワに入場した時のことを今でもはっきりと思い出せる。クトゥーゾフ、バグラチオン・・・将軍たちはよくやったものだ」などと昔を思い返すような事をしばしば語りました。

帝都サンクトペテルブルクのことや祖国戦争(ロシア戦役)のことを詳しく語るだけでなく、まるで参戦した将軍と個人的な面識があったかのように語ったことからその噂は真実味を帯びることとなりました。

そんなある日、クジミッチ老を保護していたコサック・シドロフの家に、サンクトペテルブルクで長い間奉仕していたコサック・ベレジンが訪れました。

べレジンはこの人は亡くなった皇帝であると言いました。

クジミッチ老はそれを否定しましたが、そんなこともあり、「クジミッチ老は死亡したと見せかけて余生を庶民として過ごしているアレクサンドル1世ではないか」との噂がまことしやかにささやかれました。

クジミッチ老は天寿を全うし、1864年1月20日に亡くなりました。およそ80歳だったとのことです。

そして20世紀に入っても、アレクサンドル1世を直接見たことのある司祭がクジミッチ老はアレクサンドル1世であると認めたため、ロシア貴族の多くはナポレオンを打ち倒したアレクサンドル1世はフョードル・クジミッチであると信じて疑わなかったそうです。

このようにアレクサンドル1世は、その死後もミステリアスな都市伝説がささやかれおり、その都市伝説がブレゲの歴史的な魅力をより一層引き立てています。


◎ブレゲ時計芸術の最高峰に位置づけられるグランド・コンプリケーションその他のモデル





4、ミシェル・ネイ

※フランス元帥ミシェル・ネイの肖像画(フランソワ・ジェラール作)

ブレゲにとってフランス軍は重要な顧客の1つでした。そしてナポレオンにブレゲを紹介した3将軍をはじめ、その他の将軍や元帥達の中にもブレゲの時計の愛用者は多くいました。

将軍や元帥達は戦いの最中もブレゲの懐中時計を身に着けており、休暇でパリに戻ってくるたびにアウステルリッツ、フリードラント、ヴァグラムなどで受けた傷の修理を依頼しました。

中にはブレゲ宛てに戦闘の様子をしたためた手紙を送る者もいたと言われています。

顧客台帳に記載されている中でも有名なのはミシェル・ネイ元帥です。

1812年に始まりナポレオンが惨敗したロシア戦役の退却戦において、ネイ元帥はロシア軍が背後から襲い掛かってくる中、フランス軍の後衛を務め撤退を支援しました。

この時にネイ元帥が見せた統率力と粘り強さは今でも伝説として語り継がれています。

ナポレオンからも「まったく何と言う男だ。フランス軍には勇者が揃っているが、ミシェル・ネイこそ真の勇者の中の勇者だ」と称賛されたほどでした。

ネイ元帥は1813年ロシア戦役が終わった後にブレゲの懐中時計 No.2121を購入し、愛用したと言われています。

「勇者の中の勇者」という名声の記念として購入したのかもしれませんし、ロシア戦役で傷ついた時計の買い替えのためにブレゲを購入したのかもしれません。

その後、ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗北し、1814年3月31日、パリは陥落。ナポレオンは退位しエルバ島の小領主として追放されてしまいます。

ですが翌年1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出し、3月1日午後3時にサン・ジョアン湾に上陸しました。

ネイ元帥は親書を受け取るとナポレオンと合流しますが、ワーテルローの戦いで敗北。囚われの身となり裁判で銃殺刑を言い渡されました。

銃殺される時、目隠しを勧められるのですが、ネイ元帥は「君は私が20年以上も前から銃弾を直視してきたことを知らないのか?」と目隠しを拒否しました。

ネイ元帥の最後の言葉は「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したら真っ直ぐ心臓を狙って撃て。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」だったと言われています。

そんなネイ元帥が身に着けていた懐中時計は、軍人らしいシンプルで耐久性の高い物だったと想像されます。


◎見やすさ、 高精度、無駄のない洗練されたデザインを追求した「クラシック」コレクション




5、シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles Maurice de Talleyrand-Périgord)

※1809年にヴァランセ城で描かれたタレーランの肖像画(ピエール=ポール・プリュードン作)。ヴァランセ城はナポレオンの退位が定められた場所。

1790年当時、フランスでは実演販売が流行していました。

ブレゲは「パラシュート」と呼ばれる耐衝撃吸収機構を発明し、それが本当に機能するのかをサロンで実演することになりました。

そのサロンの主催者こそ、外交と裏切りの天才であり「ナポレオンを失脚させた元司教」シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールでした。

タレーランもブレゲの顧客の1人でしたが、「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、常に陰謀を企んでいる」と評される人物であることから、この実演販売もタレーランとしては金儲けの1つだったのかもしれません。

実演が開始されようとするとブレゲの周囲に人が集まり、サロンは静寂に包まれました。

ブレゲはその時計を勢いよく床に叩き落としました。

その後、招待客の1人にその時計を拾ってもらい、周囲の人に回して時計が正常に動作していることを確認させました。

それを見たタレーランは「このブレゲと言う奴は、いつも一歩先んじたとこをしないと気が済まないらしい」と言ってこの実演を締めくくったと言われています。

タレーランは人々を冷静に観察しながら冷笑していた人物でしたが、「このブレゲと言う奴」と言っていることから、この時ばかりは驚きを隠せなかったと考えられます。

そんなタレーランが購入した時計がどのような時計だったかは不明ですが、タレーランは貴族然とした人物でした。そのため並み居る貴族を顧客にしていたブレゲの時計をステータスシンボルとして購入したのだと考えられます。


◎時を超え、はるかな時代への旅に誘う「トラディション」コレクション


腕木通信とブレゲ

腕木通信とは腕木と呼ばれる長さ数メートルの3本の棒を組み合わせた構造物をロープ操作で動かし、この腕木を別の基地局から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達する、主に1793年~1840年代くらいに活躍した情報伝達機です。

伝達速度は速く、1分間に80km以上の速度で信号伝達されたと言われています。

腕木通信は1793年にフランスでクロード・シャップによって発明されたのですが、その際にアブラアム=ルイ・ブレゲの協力を得て複雑な動作を可能としたという経緯があり、腕木通信の完成にはブレゲが深く関わっていました。

そして1799年のブリュメール18日のクーデターにおいて腕木通信網の全線に、クーデターの剣の役割であるナポレオン・ボナパルトからのメッセージが流されました。

ナポレオンが故郷であるコルシカ島の東に位置するエルバ島を脱出し、カンヌとアンティーブの間に位置するサン・ジョアン湾へ上陸した時も、その行動が腕木通信でその日の内にパリへ連絡されたと言われています。

しかし電気通信の発達とともに衰退し、1880年代にスウェーデンの離島で運用されていたのを最後に姿を消しました。

ブレゲの才能は時計だけでは無く、当時の通信技術などにも発揮されていたのです。

世界5大時計の1つブレゲ

ブレゲの創始者であるアブラアム=ルイ・ブレゲは現在の機械式時計に搭載されている機構の約70%を発明、改良したと言われており、現在でもパテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、ランゲ&ゾーネとともに世界5大時計と呼ばれ、超一流メーカーとして時計界で名を馳せています。

この中に日本でも有名なロレックスは入っていません。

ロレックスは誰もが知る高級ブランドであり、実用時計の頂点と言われていますが、ブランド力でこの世界5大時計に劣っているのです。

一般人は誰もが知るロレックスを選びますが、すでにロレックスをお持ちであったり分かっていて資産のある方は世界5大時計を選びます。

その中でもブレゲ社の時計はナポレオンと深い関わりがあり、デザインもシンプルで、コインエッジベゼルやブレゲ針など、ブレゲならではの独特の高貴さを纏っています。

ブレゲの時計のそれぞれの部品や機構、デザインにも歴史とこだわりがあり、それがブレゲならではの独特の高貴さに繋がっているのでしょう。


ナポレオンの戦いのほとんどにブレゲの時計があり、周囲の女性たちも実用面と高貴さが両立したブレゲの時計を愛用しました。

当時と同じものは販売していませんが、「英雄」ナポレオンとともに駆け上がり、「皇帝」ナポレオンとその家族を見守ったブレゲ社の時計をぜひあなたも身に着けてみてはいかがでしょうか。