ボルゲットの戦い 08 Battle of Borghetto 08

ボルゲットの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約30,907人 約500人
オーストリア 約17,790人 583人(捕虜含む)

ボルゲットの戦いの感想Impression

 このボルゲットの戦いはナポレオン軍の長短がよく表れている戦いだった。

 「短」の部分は統治である。

 フランス軍が貧しく飢えてみすぼらしいことにより現地調達せざるを得なかった。それにより住民が反乱を決断するにまで関係は険悪になっていった。(マッセナとオージュローの略奪が特に酷かったのだろうと著者は思っている)これにより後方を脅かされた。今回はほんの僅かな時間で鎮圧できたため作戦に支障は出なかったが、このような統治における住民との不和は今後もナポレオンを悩ませることになる。

 軍を優先するナポレオン軍の弱点である。

 「長」の部分は軍事面であり、陽動の手本とも言うべき機動でオーストリア軍を分散させボルゲットに兵力を集中し短時間で渡河を果たした。

 オージュローがガルダ湖を迂回及び渡る素振りを見せたことで、ヴェネツィア共和国所有のペスキエーラ要塞でミンチョ川の通過を許す危険とオーストリア軍にとって最も重要なチロル方面の連絡線を遮断される危険をボーリューに認識させて対応を迫った。さらにそこからボルゲットに向かうことでキルメイン師団、マッセナ師団の作戦に何か問題が起こったとき増援として駆け付けることができる。

 セリュリエが一旦ブレシア方面へ行ってからブレシアから見てマントヴァ方面にあるカステルヌオーヴォへ向かったことでゴーイトからマルカリアまで配置されたビカソヴィッチ旅団に警戒されゴーイト及びマントヴァの兵力は動かすことができなくなり、さらにカステルヌオーヴォからボルゲットに向かうことでカンパニョーラに配置されたニコレッティ旅団の注意を引きつけた。

 これらの機動によりオーストリア軍中央が薄くなりキルメインは3時間でミンチョ川を通過することができた。

 虚の動きが実になる見事な機動である。

 対してオーストリア軍はナポレオンの作戦に終始翻弄されていたように見える。

 オーストリア軍にとってマントヴァ要塞は陥落させるわけにはいかないことは分かるが、強固なマントヴァ要塞に約12,000という大兵力を置いたことで他の部分が薄くなった。

 さらにオージュロー師団の陽動により少ない兵力がさらに少なくなった。

 局所を見ると主な戦闘のあったボルゲットとヴァレッジョを結ぶヴィスコンティ橋での兵力はキルメイン師団が約6,000人に対しピットーニ旅団が約3,000人である。

 ただボーリュー視点だと自身に入ってくる情報の中で行動するしか無く、フランス軍の動向を終始把握し、それに応じて兵力配分をしていた。

 フランス軍がペスキエーラ要塞を通過する機動をして、ペスキエーラ要塞にリプタイ旅団を派遣したのはこれは当然の動きであるし、ガマー予備軍を右翼近くに配置したのもこれは仕方のない話である。

 ボーリュー視点、ペスキエーラ要塞をヴェネツィア共和国に任せて兵力を配置しないという選択は、はっきりいってギャンブルであり、できない選択である。

 ボーリューがペスキエーラ要塞方面に多くの兵力を配置した後、ボルゲットの戦い前日にフランス軍がカステルヌオーヴォに進出してきたという報告を受けた時は非常に驚いただろうと思う。

 この戦いでのナポレオンの勝因は陽動と兵力の集中を上手く使い、戦闘時点での戦力的優位を作り上げたことであり、ボーリューの敗因は受け身な姿勢とマントヴァを守りすぎたことだったのではないだろうか。

 マントヴァ要塞の兵力を削減しヴァレッジョに配置していたらより長い時間防衛することができ、メラス麾下ガマー予備軍がボルゲットとヴァレッジョを繋ぐヴィスコンティ橋での戦闘に間に合うことができたのではないだろうか。

 ピットーニ旅団(約3,000人)、ガマー予備軍(約4,000人)、マントヴァからの増強(約7,000人)と仮定した場合、キルメイン師団の最初の攻撃時、フランス軍約6,000人対オーストリア軍約10,000人でオーストリア軍が圧倒的優勢である。そこでお互いマッセナ師団とガマー予備軍が到着した場合、フランス軍約15,000人、オーストリア軍約14,000人となる。想像のみではあるが、かなりいい勝負ができたのではないだろうか。

 そしてボーリューに戦略があり攻める意欲があった場合、もしかしたらオーストリア軍が勝利していたかもしれない。

 追撃戦に入り、ベローナ方面にボーリューが退却したとナポレオンが思いこみ兵力を差し向けたところも面白い。神の視点ではなく実際に戦っている者の視点でナポレオンは自分の考察を信じたのである。

 ただナポレオンにとってボーリューがアディジェ川の背後ではなくチロル方面に退却したのは、ある意味幸運だったのではないだろうか。

 アディジェ川以東の防衛に関してあまり警戒しなくてよくなり、トレント方面を重点的に警戒すれば良いからである。

 この後、マントヴァ要塞を巡る戦いが繰り広げられることとなるのだが、ロヴェルベッラにナポレオンが滞在したとき、ヴィラ・ゴビオ(Villa Gobio)という名の別荘に宿泊したと言われている。

 このロヴェルベッラはボルゲットの戦い前、ボーリューが本営を置き兵力配分を行った場所である。

 ヴィラ・ゴビオに滞在した日は、ボルゲットの戦い後ナポレオンがロヴェルベッラに滞在したと確認できる7月30日あたりか、もしくはマントヴァ要塞攻略中ベローナに赴いているので7月9日前後と考えられる。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
Félix Bouvier著 「Bonaparte en Italie, 1796」
その他